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ミナリとハルモニの匂い

ミナリというタイトルはよくつけたもんだな。日本の芹をギュっと小さくしたようなもので、なかなかに香りが強い。 
遠い記憶になるけど、苦味すらあった気がする。漢方にも用いられるミナリは群生する。繁殖力旺盛で、代を継ぐごとにうま味を増すとも言われ、韓国人のみならず、移民そのもを象徴するに相応しい植物かもしれない。

ミナリというタイトルの映画、80年代にアメリカに移民した韓国人家族の物語を僕は2回見る羽目になった。
韓国映画は思わぬ展開から、え〜なんで〜という凄惨なシーンを見せつけられることになることが多いので、映画評に目もくれず映画館に入った僕としては、怖い落とし穴を意識して緊張しながら、韓国人移民の夫、妻、娘、息子、おばあちゃん一家をみていたわけで。

心臓病の子供が可哀想なことにならないか、
農園のパートナーである狂信的キリスト教徒のおっさんが一家を殺めてしまわないか、
夫婦の職場である雛の雌雄鑑別場の女子と夫がただならぬ関係になり惨事になりはしないか、
あの蛇がなんか悪さをしないか・・・・
妄想に歯止めなく、
ラストシーンでもいよいよ来るか〜と、
結局落ち着いてみられなかった。肩が凝った。

・・・そんなことはなんにも起こらなかった。ようするに僕はありもしない「別の映画」をみていたことになるのだ。

そんなわけで
またミナリをみに映画館に行った。

いい映画だった。
涙じんわり滲むラストシーン。
ったく、素直にみればいいものを。

移民家族が住みついてアメリカの人々の善意に支えられながら、患難辛苦(古いな)を乗り越えていく。アメリカンヒストリー中のアメリカンヒストリー。
もともとアメリカは世界最大の移民国家なのだ、多元的な文化が、まさに合衆国としてのパワーを生んできたのだ。
そのことを「ミナリ」という映画の韓国人家族から見つめ直そうではないか。

おしまい。

としてもいいのだけれど、映画で描かれなかったことが今でもずっと僕の想像をかきてている。
この映画でオスカー女優となったユン・ヨジョン扮するスンジャというハルモニ(おばあちゃん)のことである。

夫婦で孵卵場で働きながら、夫はさらに展望のない農場経営に奔走している。
農場主をひたすら夢見る夫と安定した家族の暮らしを求める妻の深刻な葛藤と対立。
その渦中に、苦肉の策として韓国から呼ばれた妻の母である。

やってきたハルモニ、孫からいきなり「ハルモニは臭い・・」と露骨に避けられる。
確かに、唐辛子やニンニクや味噌でできている身体だもんね。

しかも、ハルモニ、料理もつくれないのだ。
プロレスをみながらテレビに悪態をつく。
孫に教えることと言えば花札。
どうやら夫婦の留守に孫といることだけが家事。そして花札を教えるという余計なことも。お上品な育ちでないことは明確にわかる。

そんなハルモニが孫と水辺に植えたのがミナリなのだ。

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ところで、いったいハルモニは韓国でどんな人生を歩んできたのだろうか?
この映画の舞台は、1980年代となっているようで、そうなるとハルモニは1910年代から20年代生まれ。
若者として日本の植民地時代から解放後を、
大人の女性として、母として朝鮮戦争、軍事独裁政権時代を生きてきたことになる。
詩人の茨木のりこが、「燃え盛る炭を敷き詰めたような道を歩いてきた」(だいたいの記憶だけど)といった韓国の人々の歴史だ。

僕は思うのだけれども、
ハルモニはそんな時代をおそらくは、
人並みの家庭生活とは無縁の壮絶な暮らしをしてきたのに違いない。
巷に体を投げ出すように、
雑踏に身を晒すようにして、
娘のためならどんなことでもやって生きてきた。
きっとそうだ。

ハルモニがアメリカの家に到着したとき、妻は化粧しておめかしして、まるで娘に戻ったように華やいで見えた。
しつこいようだけど料理もできない風変わりの母と娘の再会。絆の強さを伺わせるいいシーンだ。
そんなハルモニだから、娘の夫にも義母として理解者にもなりえたのだろう。

単に、ユーモラスでシニカルで自由奔放なハルモニではない。
ハルモニはアメリカの中に現れた、韓国の体臭を放つ喜怒哀楽を身にまとった黒光りした母国なのだ。

そう、そしてミナリはハルモニであり、近現代を生きてきた韓国の庶民そのものなのかもしれない。






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