見出し画像

日記 性格が乗っ取られる

日記。


今年の3月くらいからずーーーっとイライラしている。日記でも幾度となく怒りをぶち撒けているが、もはや特定のことに対してイライラしているわけではなく、この世の全てに対して無性にイライラしてしまうというフェーズに突入している。参ったか。

仕事からの帰り道、混雑した改札付近をいつも通りイライラしながら通り過ぎたあたりで、ふと「このままでは人間としての大事な部分がなくなる」と思った。理性を保つためのネジが既に緩みきっていて、あと1回でもジャンプしたら簡単に外れてしまう。このネジが外れたら、俺が死ぬかお前を殺すかの二択でしか生きられなくなる。

深呼吸して考えてみたんだけど、これって単純にカルシウム不足かもしれない。思えば私は牛乳も焼き魚も好きではないので、意図的に摂取しない限りカルシウムが足りているはずがない。子どもの頃からそうなので、ずっと性格だと思っていた「怒りっぽい」部分は、もしかしたらカルシウム不足によって生み出された偽の性格なのかもしれない。

病気に関しても、よく同じようなことを考える。病気と性格の境目は曖昧で、単なる心配性なのか、脳の異常によって引き出されている強迫観念なのか、判断するのは難しい。 

私を支配している強迫観念は、ここ数年の間に自分の性格を完全に変えてしまったので、脳の異常に値すると思っている。度を超えた心配性かつ世界にイライラしている自分は、本来の自分ではないはずなのだが、約5年という長い月日をともに過ごしてしまったせいで性格が乗っ取られてしまった。こうなるともう、元の性格には戻れないのではないかと思ってしまう。それとも、これが本当に脳の異常であるならば、治療をしていくうちに綺麗さっぱり取り除けるのだろうか。

何はともあれ、たかがカルシウム不足のせいでこれ以上性格を歪めてしまってはいけないので、スーパーに駆け込んでミロと牛乳を買った。丈夫な骨を!とか言われたところで嫌いな牛乳を飲もうとは思ったことはなかったが、穏やかな性格を取り戻すためとあれば腹を壊してでも飲む覚悟だ。



自分以外の人への悪口を耳にすると、この矛先はいつか自分にも向けられるんだろうなと思って落ちこんでしまう。落ち込むし、落ち込ませるなよコノヤローとも思う。

優秀かどうか、悪口を言っていい人間かどうかの基準は、結局のところ声がでかい人の意見によって決められてしまう。優生思想と同じで、人間が優れているかどうかの線引きをするのもまた人間であるという、どこかで必ず理不尽が生じる仕組みだ。

努力をしなくても優秀な人間って存在すると思っていたけど、そういう人間を紐解いていくと、「声がでかい」「自信がある」「他責することに躊躇いがない」みたいな要素で成り立っている気がする。逆に言えばそれらが下手な人間は、どんなに優れたことを考えていたとしても周りからは何となくパッとしない人間だと思われる。

私は優秀じゃないし、周りからも特に優秀だと思われていない側の人間なんだけど、じゃあ優秀な人間の要素を真似したいかと言われるとあまり気が進まない。なんか、自分の場合優秀じゃなくてただの嫌な奴になる気がするから。優秀とされる要素が、人柄にマッチする人だけが、優秀な人間になる権利を得るのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?