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日記 悲しみ依存性

日記。


最近はあまり良いことがない。天気も悪いし。まるまる太った犬が服を着せられてよちよち歩いているのを目撃したことくらいしか、良いことがない。


別に今日の話ではないんだけど、ナスを焼いたりした。ナスは一周回って丸焼きにするのが1番美味しい。真におしゃれな人が白Tにジーパンを着ているような、垢抜け感がある。普段は麻婆だのミートソースだのゴテゴテ着飾ってはいるものの、たまにはこういう「抜き」も入れたくなるものなんだろう、ナスという奴は。


仕事がいよいよ大詰めになってきた。仕事自体は楽しいっちゃ楽しいんだけど、それ以上に毎日の漠然とした不安、苛立ち、緊張感が苦しい。本来心配性の気はあまりないんだけど、「私は心配性でなければならない」という謎の強迫観念がある。

最近思うに、自分の根深い問題の一つにはこの強迫観念というものがある。こういう人間でなければならない、こういう行動をしなければならないと自分自身を縛り付けて、その指示によって動かされている。
傷つきたくないがために予め自分の評価を低く見積もっていて、「劣っている人間なのだからせめてもの償いとして不幸を味わわないといけない」と考えてしまうのだが、これって一体誰の為なんだろう。

私は強迫観念という苦しみに依存している。しかし「毒をもって毒で制す」という治療法しか知らない。悲しみを別の悲しみで打ち消す荒治療しか、自分にしてあげることができない。

最近「不幸には依存性がある」というのを聞いてしっくりきたのは、この考え方に上手く結びついたからだ。一つの悲しみに対して真っ当に向き合って、もっと深くまで悲しむことで、いつか毒の根っこが癒やされる日が来るんだと信じている。悲しみをその場限りの代替品とすり替えてしまうと、そのときは癒えたように思えた悲しみが皮膚の下で広がり続け、やがて大きな牙を剥く日が来るんじゃないかと思っている。

たぶんこれは間違いで、毒に毒を足していったら単に毒が2倍に増えるだけだ。悲しみをより深く悲しんだとて、ただ深く悲しんだという結果にしかならない。

でも、何十年と習慣にしてきた考え方を今更変えるのが怖いんだよな。本当にこの悲しみの連鎖を断ち切りたいと思っているなら深く考えるのを今すぐやめて、代替品で癒やす方法を取り入れないといけない。こうした方がいいのはわかっているんだけど、もう毒が回りすぎてしまった。悲しみには依存性、そして中毒性がある。今更私から悲しみを取り除いたら、私は私ではなくなってしまう気すらしてしまう。



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