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日記 自由意思というもの

日記。


嫌なことがあった日ほど、それとは全く関係のないことを日記に書くと少し忘れられる。嫌な感情に脳のリソースを割きたくない。犬の尻のこととか、ことでんのことちゃん一家のことを考えることにもっと時間を使いたい。


外見の理想の振れ幅が大きいので、今は服装に困っている。ハッピーな服しか着たくないときに買った、ハッピーな服しか持っていないから。(犬の写真がプリントされたピンクのTシャツなど)

見た目を理想に近づける技術がかなり成熟してきた。大概のことは過去に蓄積してきたメイク技術のおかげで何とでもなるし、服はお金で買えばいい。別に整った顔立ちなどではないが、昔の自分が聞いたらびっくりするほど今の自分が好きだ。


最近一新された、湘南美容か何かの電車広告を見かけるたび、物凄い嫌悪感を抱いてしまう。『私が二重にしたいから、私は二重にするんです。以上、応援よろしく。』ってやつ。

これの何が嫌いかって、二重にしたいと思うその願望はルッキズムが蔓延う社会を吸収して作られたものなのに、そのことに目を向けずあたかも自由意思(自分が0から生み出した意思、という意味での)であることを強調した言い回しをしているところだ。自分自身がいくら自由意思だと信じていることでも、それは社会の様々な意見を都合よく組み替えたものにすぎないわけで、本当に0から生み出した答えではない。すごく滑稽な表現だなと思うけど、ルッキズムに乗っかって商売している所の宣伝としては100点満点とも言える。

これは自分にも当てはまることで、私が「こんな見た目になりたい」と思うことは自由意思のように見えて自由意思ではなく、社会で流行っているテンプレートに乗っかっているだけだ。我々が自分の意思のように感じているものは、実は既出のルールや流行や価値観を組み替えただけのものであって、0から創造したものなど1つもない。社会との繋がりが一切存在しない空間で生まれ育ったものは、心から「二重にしたい」などと望むことはないのだから。


仕事での不満がある人間とプライベートでは仲良くできる人って、かなり尊敬する。

私は「行動が嫌い」なことと「人間性が嫌い」なことの切り離しができない。そして、その「嫌い」の感情を隠すことができない。仕事での相性が悪い人間は、仕事を抜きにしたとしても「嫌い」という感情が残ったままだし、それを隠して仲良く振る舞うなんてこともできない。子どもっぽいなと思う。

大人はこの切り離しができる人が多くて凄いなと常々思っている。仕事で見限った人間とも普通にお喋りできる人は大勢いるし、数分前まで悪口を言っていた相手と普通に談笑する大人もたくさん見た。私の場合は、嫌いな面が見えたらそれがその人の全てだと思ってしまって、それ以降のコミュニケーションをシャットアウトさせてしまう。

この切り離しの能力がないと、どんどん嫌いな人が増えるばかりだ。行動が気に食わなかったとしても、それがその人の人間性の全てではない。このことは肝に銘じておかなくては。

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