自分を見切った人たちと再び向き合って思ったこと

生きているといろいろありますが、その中でも人や組織から見切られることはつらい記憶として残りがちです。

自分に非があった上でのことなので誰かから見切られるのは、自分のせいです。そのうえで見切ることについて書き進めていきます。

人や組織が自分を見切るシーンでは、こんな言葉が使われてきました。

資格を自主返上しなければ剥奪します。

〇〇部へ降格した上で異動です。不服なら辞めてもらってもかまいません。

あー、じゃあもういいです。伴走支援は今日で終わりで。

中途入社で即戦力で期待していたんですけどねぇ・・・で、どうします?続けます?

組織として、職員や会員の示しがつかない、判断間違えると有力な資金提供者を失うので厳正な対応が必要、仕事できないのにできてるあの人より給料をだすのはモチベーション低下につながる、わかりやする切ることで仕事できないのに組織にぶらさがっている人たちの見せしめにしたい、などなどいろいろな思惑があります。

組織といっても最終的に行動するのはいち個人です。見切るセリフを言おうと打ち合わせに集まっている人たちの顔を何度も見てきましたが、目が冷徹で雰囲気は固く、言葉遣いは変に丁寧で人らしさは感じられません。そして、見切る言葉を伝えた後で『何か言いたいことはありますか?』と台本通りのセリフを言ってきます。

法律や規約、決まりごと、他の職員の士気、大事なことはよくわかります。そして、組織として切らなくてはいけない人を切る必要性もわかります。だから批判はしません。むしろ、そんな非人間的にならないといけないめんどくさい仕事をさせてしまってすみませんと思います。

見切られたことが多くの人に知られていくと、『最近何されてます?久しぶりに話しましょう』といってくださる方がいます。気にかけてくれてありがたいのですが、お話していくうちに私に対する嫌悪感や疑念が表情にでてくる方もいます。その表情を見るたびに、会わなければよかった、話しなければよかったと思います。そして、自分のことでいやな気持ちにさせてすみませんと思います。

こうして、まわりのいろんな人や見えない何かに謝り続けているとおかしくなってくるので、そこを遮断して生きていくことになります。そして時間がたって生活や仕事が成り立ってくると、今まであんなに大切だと思っていて失ってつらく感じていた関係性がなくても生きていけるようになります。

そうした状態になってから、かつて見切った人たちと会った時、どんな感情になるかなと自分でも分からなかったのですが、先日その機会がありました。

一言でいうと曇り空の凪いだ海のようでした。マイナスもプラスの感情もわかなくて、何もうまれない無な感じ。

一度壊れた関係性は元に戻るのではなく、こうしたかたちになるんだなとかみしめています。もっと時間が経てば変わるかもしれないですが今はこんな感じです。

もう交わることはないですが、別々の場所でお互い頑張っていきましょう。

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