『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー(著),市川恵里(訳)
フィクションとして読むべき。誤解を恐れずに一言で表せばそうなるが補足が必要だろう
この本はノンフィクションだ(主要な登場人物は特定が出来ないように匿名化がされている)
イラン・イスラーム共和国における抑圧された女性および知識人の苦悩と葛藤を描いたドキュメンタリー、と簡単に表現してしまうにはあまりに惜しい
この本の肝要な部分はフィクションの力だ
となればまずはフィクションとして読むことがより望ましい(事実として受け止めるのは後からでも出来る)
よくできたディストピア小説のように架空のイラン・イスラーム共和国という国があり、そこに虐げられた人々がいる
その国ではフィクションは(主に西洋的なフィクションは)頽廃的、反革命的とされ粛清の対象となる
しかし主人公と『娘たち』と呼ばれた優秀な女子学生たちはフィクションを読む秘密の集会を開く
何故フィクションなのか。現実に起こっている圧政、家族や仕事の軋轢と何の関係があるのか
恐らく答えをもって集まったわけではないだろう。だが彼女たちは切実にフィクションを必要としていた
想像力、という言葉が繰り返し出てくる。想像力や共感力が欠けている身としてはぎくりとしてしまう。もし私がこの本に登場していたら愚かで鈍い男のうちの一人として一行か二行触れられるだけだろう
繰り返しになるがフィクションを讃えるこの本をまずフィクションとして読んで頂きたい。先入観はむしろ邪魔になる
これが現実の話であり、それに対してどう考えるかは読んだあとゆっくり消化すればいい
百年後も読まれ続ける名作
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