見出し画像

2005年5月29日「日本ダービー 4枠7番 インティライミ」

レースのゴールシーン。
私は、はっきり見ていないことの方が多いです。
当然ですが…本命馬の位置を見ているからです。
だから先日のオークスだって、スタートから最後方を見てそのまま‥。
それが今年の私のオークスでした。

2005年のダービーは、誰もが③枠⑤番ディープインパクトが
印象深いレースです。でもオンタイムでのゴールの瞬間、
ディープだけを見てたか?って言うとそれは別の話―。
私自身は大好きだった馬を見てました。
あの時の記憶を思い出しながら、想像したお話です。

 八王子方面に下る甲州街道、車の流れがいつもよりスローな気がした。由幸は第6レースの発走時刻をチェックした後に、料金メーターの横で、赤いラインを映し出しているカーナビに目をやりながら運転手に聞いた。

 「運転手さん、この先もずっと混んでます?」
「どうでしょう。車の流れはそうでもないんですけど今日はダービーでしょう?だから競馬場近くの横断歩道を渡る歩行者が多くて、そのぶん1回の青信号でこっちから行ったら左折ですか?曲がれる車が少なくなっちゃうぶん、どうしても混んじゃうんですよ・・」

  十分過ぎる説明だった。6レースの12時45分は間に合わない。やっぱり電車で行くべきだったか。とはいえ、東府中での「府中競馬正門前行き」への乗り換えは、接続を失敗すると次の電車が来るまで20分は待たされる。家から調布駅に出るまでの時間と合わせると40分以上損をして、1レースは楽しめなくなる時間のロスだ。その危険を回避するためにタクシーで向かったが・・このままでは、結果トントンの到着時刻になりそうだ。

 ―無駄にタクシー代使ったな。。取り返さないとな。

 渋滞を気にしながらも改めて競馬新聞に目を落とす。7レースには間に合うはずだ・・と、予想に集中しかけた瞬間に携帯電話が鳴った。

 ―加奈子か。。

 加奈子―別れた妻―からだった。

 「・・はい」
「もう29日なんですけど」
「あぁ・・。」
「あぁじゃなくて。29日だって言ってんの」
「・・分かった。明日振り込むよ」
「今振り込んで。絶対」
「今日、日曜じゃんかよ。今振り込んでもそっちの口座に反映されるのは・・」
「じゃあ明日。絶対明日振り込んで」

振り込みなかったら由美奈と話す資格絶対ないんで。じゃ」

「あのさ・・」
「絶対忘れないで」
「だからさ・・」

 由幸の言葉を聞く優しさはないままに電話は切られた。だが由幸に言い訳の余地はない。毎月の「養育費」は25日に振り込むのが約束だ。催促されても仕方がない。分かってはいるが、競馬新聞に目を戻しながら愚痴がこぼれる。

 「てか、振り込むモチベーションないんだよな」

 せっかくのダービーデーなのに気が滅入る。

 ―絶対振り込め?絶対忘れないで?絶対絶対うるさいんだよ・・。
―振り込んでも振り込まなくても電話で話させてくれてないだろ・・
 今年に入って由美奈と何回話せたよ。
―「月に1度は面会させる」って約束はどこ行ったんだよ。
 この1年、1回も会わせてもらえてないからな。

 電話が切れる前に直接言い返したかった言葉が脳内で、スローペースで回って来た4コーナーの馬群のように固まり予想に集中できない。
思わず「7レースどれ来るか。分かんねえよ」と呟いた。
独り言が聞こえたのか、苛立ちが浮き出た由幸の言葉を癒そうとしてか、
運転手が話しかけてきた。

 「お客さん。今日の入場券持ってるんですね。いいなぁ」
「運転手さんも競馬やるんですか?」
「ちょっとだけですけどね」
「ちょっとくらいが、いいと思いますよ」
「今日ディープインパクトが勝ったら、
 ルドルフ以来の無敗の三冠にリーチですよね?」
「そうなりますね。運転手さん、まぁまぁ競馬好きですね」
「ちょっとだけです。いいなぁ。生で見たかったなぁ。
 チケット買うの忘れたの本当後悔ですよ。お客さんいいなぁ」
「前売り入場券、買っといてよかったです」
「でもディープインパクトで固いからオッズは・・面白くないですよね」
「でもホラ、今年は3連単が発売になって最初のダービーですから」
「ですね。だから僕、ネットで3連単だけ買いましたよ」
「運転手さん、何を?」
「1着ディープインパクト、2着マイネルレコルトで総流しです」
「面白い所ですね。」
「ハイ。あと、裏も総流しで買っちゃいました」
「裏も!?それ夢ありますね。でも1着マイネルレコルトのパターンは…」「一応言っときますけど、
 この世代の2歳チャンプはマイネルレコルトですからね?」
「たしかに」
「先月の皐月賞も
 ディープ相手に先に仕掛けて勝ちに行ったじゃないですか」
「そうでしたか?」
「僕にはそう見えたんです。あれに感動しちゃって。
 今日も勝ちに行く競馬してくれたら負けても納得だなって」
「運転手さん、結構競馬好きですよね?」
「ちょっとだけです。いつかマイネルの馬が3冠レースを勝つのを見たいんですよね」
「なるほど。そういう気持ち、分かります。ダービーって一番、勝ってほしい馬の馬券を買うレースだったりしますよね」
「分かってくれます?」
「はい。ただ今年は、ディープを負かすのは流石に難しいでしょ」
「分かるってるんです。でもねぇ、盗めば何とかって思っちゃうんです」
「盗むねぇ。。」
「ほら。ルドルフかシービーか、外国馬かで絶対だったジャパンカップを逃げ切った・・」
「カツラギエースね」
「ハイ。あの時は、有力馬同士がけん制し合った隙を盗んでカツラギエースが逃げ切ったわけでしょう?」
「でしたねぇ」
「ダービーだと‥サニーブライアンかな」
「逃げ切りましたね」
「あの時も、皐月賞は逃げ切ったけどダービーまでは流石に‥ってみんな思って。それよりもシルクジャスティス、メジロブライトって後ろからの馬にみんなの意識が言ってるところを盗んで逃げきっちゃった」
「大外枠からね」
「だから盗めれば・・って思っちゃうんです」
「ディープインパクトから盗むかぁ」
「まぁ、流石に今日は難しいでしょうけどもね。でもいいんです。私にとっては、マイネルレコルトのダービーです。」
「なるほど」
「でも・・今日はディープが勝っちゃいますよね。絶対」
「勝っちゃいますね。絶対・・」

 不意に自ら口にした「絶対」という言葉が頭の中で周回を始め思わず自嘲する。由幸はいつからか「絶対」という言葉が苦手だ。理由は明白だ。別れた元妻の口癖が語気も強く言う「絶対」だからだ。

 「絶対振り込んで」
「振り込み遅れたら由美奈と絶対話させない」
「絶対忘れないで」

 ―絶対。。。まぁ、競馬には絶対はあるけどな。

 当然だが強い馬は、遅かれ早かれ絶対に勝つ。今日のディープインパクトはその最たる例だ。由幸が「絶対」とする大きな根拠・持論にどもこまでも合致している。

 「1番人気で、外々を回ってきて3着以内に来た馬はすぐに勝つ。上のクラスでも十分にやれる」

芝でもダートでもどちらでも通用する由幸独自のデータだ。検証して数値化したことはないが、もしもデータを出してみたら連対率はかなり高いという実感がある。この由幸の見つけた「絶対要素」となるレースっぷりで、ディープは皐月賞を走って完勝して見せた。その前の「弥生賞」でも「若駒ステークス」でも「新馬戦」も同様だった。ディープインパクトは過去4戦すべて、いつでも3コーナーに入る頃には、距離の損よりも不利のない外に位置を取って直線を迎えているのだ。

 ―「絶対」を4回続けて、全部勝ってダービー出るって・・。絶対中の絶対だよな。。

 もう何度目口にしたか分からない「1着はディープで決まりか」をつぶやいた。

タクシーはやっと、甲州街道から左折して東府中駅の踏切をまたいだ。

 入場券を持たず、発券されるか分からない当日券待ちをしている人の列を横目に前売り券で競馬場に入ると、中はダービーデーにふさわしい混雑ぶりだった。その人混みに、過去のダービーデーを思い出す。

 ―娘・由美奈を連れてきたこともあったな。あれは何年前だ??スペシャルウィークが勝った年だから98年、7年前か。
―そりゃ来年、中学生にもなるって話だわ。

あの日の混雑と変わらず、今日も人と人の間にスペースがない。こんな時は、4コーナーから直線の入り口あたりでレースを見るに限る。あっちはまだ、ゴール前よりは若干空いている。早めに見やすい位置を確保しないとやばいかな‥と考えながら、取り急ぎ「第7レース」の予想を確認しようと競馬新聞に目を落とした矢先、またも携帯が鳴った。今度はメールの着信だ。

 「振り込み。絶対明日、振り込んで。そうじゃないと絶対、話させないんで」

 ―さっき「分かった」って言ったじゃんかよ・・・。

たしかに約束の25日を過ぎていたことは申し訳ない。だが「分かった」と伝え、現状前に進めようのない話を催促されたことに由幸は苛立ちを覚えた。そこに火をくべるように、メールがもう1通届く。

 「あと、今月1万円増やして。あと来月からもいくらか増やして」

 ―いきなり1万増額!?なんで!?

 思わず手元の投票用のマークシートを1枚クシャッと握りつぶして床に投げた。

―由美奈と話もさせずに増額はあり得ない!

競馬予想において冷静でない感情は敵でしかない。そして悲しいことにその敵に取りつかれた当人は、まるでそこに気づけないままに、予想が雑になる。

―7レース、⑥番のタイムフライズ。芝2戦目だし前走から1ハロン伸ばしてきたぶん、前取れるし・・これ一発あるな。由幸は前日の入念な予想で頭に決めていた本命⑧クロユリジョウから、急遽軸を⑥タイムフライズに変えて投票カードをつっこんだ。それでも、さっきの電話からの苛立ちは消えない。

 ―なんでそもそも、由美奈のことに関して、なんであいつが主導権を持ってんだ。

 不満から自然、これまで何度も脳内自問実会議した疑問がまた改めて「別れた経緯」までを紐解きはじめた。

 ―まぁ‥別れた原因は、俺の仕事がほぼ100%だからな。。

 そこに関しては何も言えない。由美奈が小さかった頃、由幸はほぼ家に帰らなかった。ほぼ仕事場のテレビ局で寝泊まりしていた。でもそれは普通だ。と思っていた。制作の現場の人間、業界人なら別に珍しいことじゃない。周りもみんなそうだった。だからこそ気にならなかった。それが普通だと思ってた。だが、家庭は業界じゃなかった。夫がほぼ家にいないのは普通じゃなかった。忘れもしない、由美奈が7歳の1999年の正月だ。新たな年の幕開けを3人で祝い、由美奈が寝た後にまるでめでたくない会話が始まった。

 「別れたい」
「なんで?」
「全然、家族として成立してない。もう何年も親やってんの私だけ」
「・・・」

言葉が出なかった。言葉が出ないうちに、加奈子の口から追い打ちが続いた。

「あなたには、人のために時間を割くって言う気持ちがない」
「仕事をいいわけに、自分の好きなことやってるだけ。それって子どものまま」
「夫であることの自覚とか、父親であることの自覚とかいつか持てるといいね」

 途中から口調は優しくなりつつも、その芯はハードな攻めに、全く抵抗できなかった。いっぱいいっぱいに由幸が何とかヒリ出したのは・・
「別れて後悔しないって言えるか?」
返しは即だった。
「言える。絶対。100%」
この時の「絶対」は忘れない。以来「絶対」という言葉が嫌いなのかもしれない。

 皮肉なもので・・
離婚が決まり加奈子が由美奈を連れて家を出て、中年オヤジの1人暮らしが始まったのと時を同じくして、由幸には時間的余裕ができた。突然の人事異動がその理由だ。制作から総務への配属転向。新たな転厩先は定時帰宅、残業はなし、、土日がしっかり休みという健康的な時間が流れていた。おかげで時間に縛られない。おかげでこうして、ダービーデーに東京競馬場にいることができている。

―由美奈に見せたダービーが1番楽しかったな。

スタンド前は、どこも肩と肩がぶつかるほどの混雑だ。由幸は7レースを直で観戦することを早々に諦め、4コーナー前、メモリアルスタンドのエスカレーターを下った。

 ―先に昼メシ食っちゃおう。

 地下1階を飛ばして、地下2階・食堂フロアまで直行するエスカレーターは長い。たいていの人が、上りながら下りながら手元の競馬新聞に目を落とす。それは由幸も変わらない。

 ―ま、どんなに見ても⑤番 ディープインパクトなんだよな。個人的には…

ぼやきながらもう一度、ディープインパクトの名前を〇でなぞった。幾重にも丸が重なった馬柱の⑤番にあるその名前はもはや、塗り絵のように赤でしっかり色づけられた勢いだ。。とにかく不安要素がなさ過ぎる。あら探しをして、重箱の隅をつついて、難癖付けて不安をあげるとすれば馬体重か。ディープインパクトは今日までの4戦、デビュー以来体重を減らし続けている。今日は何キロで出てくるだろう。今日も減っていたとしたら…まあ、そんな心配もきっと杞憂に終わるだろう。そして相手も・・後ろから来るシックスセンスの1点でいいかと再確認する。

―今年のダービーは儲けるよりも、伝説を生で見るレースだな。
―ディープインパクトで絶対だ。ガチガチの鉄板過ぎる。。
―個人的にはインティライミが好きなんだが。。

  由幸は、前走、京都新聞杯を勝ったインティライミが好きだった。昔から佐々木晶きゅう舎&佐藤哲三というコンビが好きだというだけでなく、それに加えて父親がスペシャルウィークだ。由美奈と見たあのダービーのスペシャルウィーク産駒。新馬戦で見つけた時から応援している。そして、タクシーの運転手が好きだと言っていたマイネルレコルトらに完敗した新潟2歳以外は、着実に活躍を重ねた。前走の京都新聞杯でついに重賞も勝った!
ただ、一気の相手強化は流石に分が悪い。マイネルレコルトを物差しに考えても、成長度を加味しても伏兵の域を出ない気がする。それなのに、まさかの2番人気だ。ディープとの馬連は5倍しかつかない。買うにはリスクの方が大きいとみる。・・となると儲けるのは前座の7レース、8レースだ!と気合を入れて、立ち食いカレー屋の行列に並んぶ。ここのカツカレーは、若干多めの米が腹に溜まる。そして隣の牛丼と違って、スプーンで食えるぶん左手で口に運べることも重宝する。右手は赤ペンで新聞にメモ、左手はスプーンで「予想する」と「食べる」を併せる。立ち食い用テーブルの空いたスペースに陣取り、カレーと新聞を並べる。と、また携帯が震えた。

 ―知らない番号だ。

 由幸は、登録されていない番号の電話には出ないことにしている。

―なんか要件あるなら留守電に入るだろ。

 携帯は震えを停めた。同時にファンファーレが聞こえた。第7レースが発走する。

                  ◇

7レース。夢を見たのは一瞬だった。タイムフライズはハナを切った!4コーナーも先頭で回った!が、東京の直線は長く8着に沈んだ。やはり、そう簡単に逃げ切れないのだ。でもまぁ・・2番人気→3番人気→1番人気の順での決着だ。当たってたとしても大した配当じゃなかったし、惜しくはない。3連複で760円てことは、3連単があったとしても万馬券にはなってなかったレベルだ。はしゃぐのは「万」単位の高配当と相場が決まっている。昨年、9レース以降の3連単の発売がスタートして以来、目にする機会は増えた。が、それに合わせて手にする機会までもが増えたわけじゃない。やはり万馬券は難しい。

―最近、大きく当たったのいつだっけ。。

思い出しながら8レースの馬券を買う。万馬券を始め高配当が当たると確かに嬉しいが平場のレースでの的中は、その詳細については忘れがちだ。だが重賞だけは別。万馬券を取れば詳しく覚えているし、逆にGⅠともなれば、はずれてもどの馬を買ったかまでをしっかり覚えている年も少なくない。

 ―由美奈を連れてきた年のダービーも大当たりしたっけ。

 由美奈が幼かった頃の記憶を手繰り寄せる。

 「ゆみちゃん、数字覚えるの得意だよ?ゆみちゃんは5歳。きりん組は16人いまーす。」

 年中組だった由美奈に、何の気なしに好きな数字を聞いたら返って来た若干的はずれな答えは⑤番と⑯番。それに乗っかって⑤-⑯の組み合わせも100円だけ買ってみたら、まさかの的中。万馬券だった。⑤番は1番人気のスペシャルウィークだからもちろん買えたが、⑯番のボールドエンペラーは14番人気。当然、由幸自身の予想には全く引っかかっていなかった。由美奈の話がなければ買っていたわけもない馬券で万馬券が当たった。あまりの衝撃で、あのダービーが武豊の初勝利だったということよりも、その事実が記憶に残っている。帰りにおもちゃの携帯電話を買ってあげたことを思い出す。

―家で散々、電話ごっこやったなぁ。楽しかった。

 年が明けて離婚して、会える数は年々減った。気づけば7年。由美奈も小6。来年には中学生だ。受験はどうするんだろうか。今度会えたら、話せたら聞いてみよう。いつになるかは分からないが…。思い出したのも何かの縁だと8レース、由幸は⑤番⑯番の組み合わせも買ってみる。

 ◇

8レースは大荒れだった。あまりの大波乱に、配当を知らせるアナウンスに観客の声が地響いた。
「3連勝単式 230万6910円」
⑫番人気→⑥番人気→⑪番人気で3連単が230万を超える大嵐だ。

「どうやって当てんだよ・・」と呟いた由幸の本命は④番人気のチョウカイフライトだった。前走同じ東京の2400mで、いい脚を使って2着していたことと、母親がチョウカイキャロルだったことに自信を深めて「絶対だ!」と単複で勝負してみたが、スタートからほぼ同じ位置でゴールした。掲示板には乗れただろうかといったあたりだ。

―競馬に絶対はない。。でもお前の母ちゃん、ここでオークス勝ってんたぞ。頼むよ。。

由幸は「③チョウカイフライト」と馬名の書かれた単複馬券と、由美奈との記憶にあやかって買った「⑤―⑯」の馬連馬券を合わせて捨てた。⑤と⑯の2頭は、後ろから数えた方が早すぎた。

ダービーまではあと1レースだ。人混みのレベルは更にクラスが上がった気がする。由幸は、次の9レースとダービーの馬券をまとめて買うことに決めた。9レースの後にもう一度券売機に並ぶと、最悪発走時間に間に合わず買えない可能性もある。それくらいの混雑だ。エスカレーターで、レストランフロアから馬券の買える1階フロアに上がる。9レースを予想する前に、本番ダービーの⑤ディープインパクト⑮シックスセンスの馬連オッズを確認すると10倍と言ったところ。決して配当は高くないと思い、自然と目線が3連複・3連単のオッズを意識する。「見るレース」と決めておいたはずなのに、「ハズレ」が続くとどうしても高配当を取りに行きたくなる。良くない流れだ。

 ―9レースで大きいのを当てればいいか。

思い直し、新聞に目をやりながら馬券購入の列に並ぶ。既に前には20人以上の列だ。購入の順番が来るまでに予想もまとめようと思った矢先、再び電話が鳴った。さっきの知らない番号だ。

―誰だよ。日曜日に。しかもダービーの日に。。

由幸に電話を取るつもりはない。無視だ。しばらくすると電話は留守電に流れたようで震えが止まった。しかし、電話をかけてきている側はそれをよしとしないのか再び携帯が震え出した。仕方がない。由幸は着信に応じた。用心深く低い声で尋ねてみる。
「はい?」
 電話の向こうの声は由幸のそれとは対照的に高い声だった。
 「パパ?」

 ―由美奈!?

「ん?」
「由美奈だけど。分かる?」
「そりゃ分かるよ。てかお前、携帯買ったのか?」
「買ったよ。6年生になって塾の帰りが遅くなったから買ってもらった。てか、パパが買っていいってお金くれたんじゃん」

 ―俺が?

 「ママから言われたよ?」
「・・そか。」
「買ってくれてありがとう。1万円でお釣りあったから、今度渡すね」「・・おう」

落ち着いた風を装いながら言葉を返し、必死に状況を理解しようと頭を整理する。

―俺が携帯を買った?1万円で?

元嫁の言葉が頭をよぎった。
「あと、今月1万円増やして。あと来月からもいくらか増やして」

―そういうことだったのか??1万円は由美奈の携帯電話購入費だったのか??

由幸としては元妻に連絡をして真相を確認したいが、由美奈には関係ない話だ。一方的な会話が続く。

「てかパパ何してんの?周りうるさくない?」
「あ~。パパ今、競馬場にいてさ」
「競馬場?仕事?」
「仕事じゃないよ。今日ダービーなんだよ。ほら、覚えてないか?由美奈が幼稚園の年中の時に来て当たった・・・」
「あー!??帰りに電話のオモチャ買ってもらった?」
「そうそう」
「いいじゃん。じゃあ今日も当たったらなんか買って・・あ、携帯買ってもらったか」
「いいよ。何でも買ってやるぞ?何がいい?」
「焼肉!」
「焼肉は買うものじゃないだろ」
「だめ?」
「駄目じゃないよ。じゃあ当たったらね」
「絶対当てて」
「パパだって当てたいけど悩んでるんだよ」
「ださっ」
「ダサいって何だよ。てか、そうだ!由美奈、確か数字得意だったよな?」「え?数字?算数?そうでもないけど‥」
「小さい時、得意だったろ?」
「ん~覚えてない」
「まぁいいや。なんか・・いい数字ないか?」
「だから分かんないって。ラッキーセブンとかでいいんじゃない?」
「ラッキー7か。分かった。」
「じゃ。私、友達にも電話して番号教えたいから切るね」
「分かった」
「じゃ」

由幸は、携帯の画面に残された11桁の番号をしばらく眺めた。一応、加奈子へ「由美奈から電話来たけど」とメールを送る。そして改めてダービーの買い目に考えを巡らせる。

 ―ラッキー⑦て。。

 安直過ぎるという思いと、由美奈から電話が来た驚きに笑みがこぼれる。競馬新聞へ視線を戻すと、9レースの⑦はスクールボーイ。人気薄だ。そして本番10レースの日本ダービーの⑦は…

 ―そうだよ!インティライミだよ!

 由美奈が押した番号に、偶然にも自分が好きな馬が入っている。これは‥と思い、少しだけ考え直す。券売機までの列はまだ15人以上あるので十分に間に合うはずだ。普通のレースでの2番人気なら十分狙える。ただ、今回のダービーで言うと1番人気に⑤ディープインパクト鎮座するのを眺めての2番人気だ。流石に頭は厳しい。

⑤―⑦の馬連は変わらず5倍ちょっと。極上焼肉を奢るほどは稼げそうにない。

―となると⑦インティライミの単勝で勝負か。2番人気でも19倍だ。でもなぁ・・。何度見返しても1着は⑤ディープインパクトしか考えられない。てことは⑤⑦に、最初から予想していた⑮シックスセンスを入れた3連複にしてみるか。こちらのオッズも20倍を超えている。

 ―よし!この1点で勝負だ。

 予想を固めてマークシートに手をかける。とりあえず9レースは⑦スクールボーイの単複を買い、10レースは「絶対」の⑤ディープインパクトから⑦インティライミ⑮シックスセンスの番号を塗れば絶対だ。

 ―絶対?

最後にマークシートの金額欄を塗りながら「絶対」がループする。

 ―本当に絶対か?

 つい数分前に、由美奈から電話が来るという、絶対にありえない展開が起きた。その高揚感はまだ残っている。そう、絶対はないんだ!

 ―競馬で絶対が崩れるのはいつだ??どんな時だ??

券売機までの列はあと5人を切った。大慌てで最後の最後にもう一度だけ考え直すと、運転手の言葉が頭の中に返って来る。

「盗めば何とかって思っちゃうんです」
―盗むか。
「私にとっては、マイネルレコルトの日本ダービーです」
―俺にとっては誰のダービーだ?

 今年は、きっと何年も忘れないトピックが立った。
「2005年は、由美奈から初めて電話が来た日のダービー」だ。だったら、この先何年も、由美奈と話せるネタになる馬券を買うことが、俺のためのダービーになる。

 ―間違いない。インティライミのダービーだ!
―勝負になるか!?

脳内で自然、インティライミが勝てる理由を考える。

 ―まだ1度もディープインパクトと対戦してない。
―この馬も京都新聞杯、1番人気で、外々を回ってきて勝ってたな。
―4コーナー回って来たポジションから、順位下げたことないんだよな。
―インティライミの父は、あの日一緒に見たスペシャルウィークだ!

7年前、おもちゃの携帯を買ってやったあの日と同じダービーの日に、「娘自身」の携帯から連絡があった。こうなって来ると、何かのお告げに思えて仕方ない。由美奈の教えてくれたラッキー⑦で行ける。気がしてきた。自然、ダービーのレース展開を妄想する。

 『スタートしました。ディープインパクトは後方に構えて、前に行くのはやはりコスモオースティン。シャドウゲイト…連れて2番人気・インティライミも追走です。前々に位置を取りに行った鞍上 佐藤哲三・・』

 ―そう!鞍上は佐藤哲三だ!

佐藤晶&佐藤哲三のコンビはこの大一番、どんな展開を目論んでいるだろうか。

 ―佐藤哲三、府中2400、GⅠ。

 3つのキーワードを並べると、瞬時に2年前のジャパンカップを想起された。あの時、佐藤哲三はタップダンスシチーでこの東京をぐるっと1周逃げ切った。誰もが勝つのはシンボリクリスエスかネオユニヴァースだと思っていた。

 ―まさか逃げたりすれば…。

 思いが廻った瞬間に、加奈子からのメールが入った。
『由美奈が自分の携帯で連絡するのまで、私に止める権利はありません。携帯電話代は、父親であるそちらが出すってことで買ってあげたんで増額を頼みました。文句ないよね?』
『了解。なんかありがとう』
『お礼はいいんで。父親らしく会話くらいしてあげて下さい。あと来月から通話代で5000円足して下さい』

 ―毎月5000円増額て。。

 愚痴が浮かびながらも、顔はほころぶ。これからは気楽に連絡も取れる。

 ―となると、ますますダービーは大きく当てないと厳しいな。

 由幸は新しいマークシートをポケットから取り出した。券売機、順番が回って来るまではあと3人だ。大慌てで塗り始める。

 「東京10R
 単勝⑦インティライミ
 馬単1着⑦インティライミ・2着⑤ディープインパクト
 3連単1着⑦インティライミ・2着⑤ディープインパクト・3着⑮シックスセンス」

 昨日までの何度もの予想を覆す。わずかひとつの出来事をきっかけに、わずか数分で覆す。

 ―これでいい。3連複や馬連はいらない。由美奈との思い出の日本ダービーだ。1着でとらないでどうする!

馬券を買い、直線を眺めようと外に出てみる。
目の前にはゴールから400m地点辺りの芝生が生える。あと50分後、インティライミはこの直線をどのくらいの位置で通過していくだろう。由幸は、競馬新聞をもう一度開き、⑦インティライミの名前に大きく◎をつけた。太陽がその決断を後押しするように、真っすぐの日差しでターフを照らす。ダービーの前、9レースを走る馬たちが目の前にやって来た。ハイペースの展開だったのか、前を行った馬たちが一気に飲み込まれていく。後続馬の展開だ。

 『ここで先頭はブルートルネード。連れてエスユーグランド、ファイトクラブも伸びて来た!』

 ⑦スクールボーイは名前も呼ばれない。

―大丈夫だ。ラッキー⑦が来るのは次のレースだ。⑦インティライミが日本ダービーで来る!絶対に来る!来てくれ!

18頭ゲートイン。

スタートしました。⑦番インティライミ、押して押して佐藤哲三。
ハナをうかがう構えですが、その外、コスモオースティンが前に出ます。
さらに外から一気にシルクネクサスも先手を主張。

それからシルクネクサス、さらにはダンツキッチョウ、シルクトゥルーパーあたりも前に着け、1番人気ディープインパクトは後方3番手といったあたりで各馬、1コーナーへと入ります。隊列はやや縦長。セントウハココデコスモオースティン。2番手にシャドウゲイト上がりました。3番手にシルトゥルーパーが控えて、インティライミは内々4番手、5番手といったあたりで前を見る形。ディープインパクトとの初対戦を、9馬身から10馬身前の位置取りで2コーナーへと向かいます。1番人気・ディープインパクトは後方、さらにその1馬身半後ろにシックスセンス。虎視眈々とディープインパクトをマークしながら、そして最後方に2歳王者・マイネルレコルト。後藤浩輝とマイネルレコルトが全馬を追う展開で向こう正面バックストレッチを進みます。

コスモオースティン先頭。リードは1馬身半。2番手シャドウゲイト。そして内からインティライミが早めの進出で、2番手に並んで3コーナーへと入っていきました。ディープインパクトは未だ後方、後方に位置したまま3コーナー中間。後方の位置から徐々に差を詰めにかかって、外に出して中団まで上がろうとしています。前は早くも4コーナーのカーブに入りました。先頭はコスモオースティンとシャドウゲイト。そのすぐ後ろにぴったりとインティライミ。いつでも抜け出せる手応えか、佐藤哲三は手綱をじっと持ったまま内々を回ります。4コーナー回って直線に入りました。

ここでインティライミが最内を突いて前を伺う!
前に出た!
先頭インティライミ!ディープインパクトも大外から進出開始!
さらには内々、マイネルレコルトがインティライミの通ったコースを追うように伸びている!
しかし前はインティライミ!
残り400を切って300!
先頭はインティライミ!太陽神、インティライミが先頭か!
外からディープインパクト、この2頭が抜け出した!残り200!
ここでディープインパクトが前に出た!インティライミ!内で粘るか!インティライミ前を追う!あと100!ディープインパクトが抜けた!インティライミも伸びている!インティライミ前を追う!インティライミー!

 1着⑤ディープインパクト
2着⑦インティライミ
3着⑮シックスセンス


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?