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私は八十歳

本日(2020年12月6日)、八十歳になりました。八十歳になったら、なにか特別な感慨があるのではと思っていましたが、そのようなものはありません。


一昔前と違って、八十歳という年齢が特別珍しい訳ではありません。周りに沢山います。しかも皆元気に日々過ごしている人ばかりです。もちろん高齢であることは確かですから、皆多少の健康上の問題を抱えています。さすがに、現役でバリバリ活躍している人はほとんどいませんが、日々の生活をそれなりに楽しんでいるようです。


実際に八十歳になってみると、子供の頃考えていたものとは大分違います。確かに体はどうしようもなく衰えているわけではありませんが、やはりそれなりにガタが来ているのも確かです。脳力、筋力、持久力など確実に下がっています。


物忘れがひどい、長く歩く事ができない、無理をするとひどく疲れてしまうなど、若い時とは完全に違いますが、反面、新しく生まれる能力もあるみたいです。


例えば暗算をする能力などは格段に落ちます。しかし、計算をしないでどんな結果になるか検討を付ける能力は返って向上するみたいです。ただし、個人差がありますので、誰でもとは言えないのかも知れません。従って、以下に述べることは、著者の場合に限られるかも知れません。


要するにものごとを細かく分析評価する力は完全に低下しますが、総合的に判断する能力は完全に向上します。従って、それなりに課題をこなす能力は向上しています。


人間はいきなり八十歳になるわけではありません。80年という歳月を経て八十歳になる訳です。80年のうちには膨大な経験が積み重ねられます。ですから運が良いと大変な潜在能力の蓄積があるわけです。


それと極めて重要なのは、老人が置かれている環境が昔とは全然違うことです。特筆すべきは、情報関連の環境です。昔はパソコンやスマフォのような便利なものはありませんでした。自分の記憶と書物が頼りでした。記憶を維持することがとても大変で、そのための特殊な能力と日々の努力が大変だったとおもいます。今では、曖昧になってしまった記憶を再び明確にできるばかりでなく、日々新たな知識を獲得することも可能です。


この数十年に、我々の情報関連の環境は一変しました。著者は研究者の端くれでしたので、若い頃から数えきれないくらい研究発表をしましたが、若い頃の研究発表は、今の若い人には想像できないと思いますが、掛け図をこしらえて、掛け図を指し棒で指しながらの発表でした。当然のことながら、発表会場に掛け図を持参しなければなりませんでした。


その後、掛け図はスライドとか、オーバーヘッド・プロジェクターになりました。今はどうでしょうか?ノートパソコンで発表用の電子スライドを用意して、発表会場のプロジェクターでスクリーンに投射すれば良いのです。さらに、フェースツーフェースの発表会ではなくて、オンラインの発表会ならば、電子会議システムにより、オフィスあるいは自宅に居ながらにして発表ができます。夢のような話です。


一方、それでは研究そのものについてはどうかと言うと、一昔前ならば、大型計算機を必要としたような計算がパソコンでできます。画像処理ユニット(GPU)でパソコンを補強すると、パソコンでスパコン並みの計算ができます。ハード面ばかりでなく、いろんな便利なソフトが開発されていて、文章を書いたり、図を描くのも簡単にできるようになっています。しかも出来上がった論文の電子ファイルを一瞬の内に世界のどこへでも簡単に送ることができます。著者の子供の頃に夢物語であったことが、日常茶飯事になっているのです。


実験についても同様です。センサーやデータ処理が飛躍的に進歩しています。一昔前とは格段の差異があります。


更に知能の自動化や機械化も進み、今では多言語の機械翻訳も可能となっています。遠からず、多言語の同時通訳が実用化されて、言語の壁が克服されようとしています。


このような時代の進歩をうまく取り入れて自分のものとできれば、年とることにより衰えた能力、とりわけ脳力の衰えを克服できる可能性があります。今後、老人のスーパーマンが輩出するかも知れません。


しかし、何事にも落とし穴があります。それは体力の衰えです。これも様々な体力補強機の出現により、サイボーグ化の道が開かれるかも知れませんが、望むらくは自然体力の維持です。いくら脳力が維持されても体力が維持されなければ、人間としてはいびつです。この二つの能力のバランスに欠けると、人間の精神の健全さにも問題が出てくると思います。


要するに、八十歳という年齢は一昔ならば文字通り老人になってしまう年齢なのですが、時代が変わって、八十歳だからと言って、一昔前の老人とは言えないようです。


こんなことを考えているうちに、あと10年頑張ってみようかと思うようになりました。問題はこの10年をどう生きるかということです。ただ10年寿命が伸びるだけでも神仏に感謝すべきとは思いますが、できることならばその10年を納得できるように使いたいというのが人情と思います。


そこで考えられるのは、もし許されるならば自分の人生の総括をしてみたいなと思います。現在いくつか手がけていることがありますので、あるものは論文よりも書物にしてみたいと思います。また、あるものは独自の研究結果を出して、それを研究論文にして発表したいと思います。


1冊の書物を書くことでも10年掛かるかも知れませんので、大変挑戦的な目標設定と思います。大学者、大研究者ならば可能と思いますが、市井の名も無き一研究者としては、無謀かも知れません。しかし、やり遂げれば正しく大学者、大研究者である訳ですから、論理的に全くの的外れではないでしょう。


その可能性はいろいろあります。ともかく自由にできる時間は嫌というほどあります。また、個人差はあると思いますが、この年になって初めて、本当の意味で何ものにもとらわれない自由な考え方ができるようになって来ました。実はこれは不思議なことで、突然そのようになったのです。耄碌したのではと疑われる方も多いと思いますが、決して耄碌では無いと信じています。


しかし、すべてを決めるのは健康だと思います。これから10年間健康を保つのは、天命が半分、個人の努力が半分でしょう。個人のできることは、精神と肉体の衰えぬように日々、精進、鍛錬することです。あとは天命です。この天命の中には、家族、友人、知人に恵まれることも含まれます。


運良く10年生き延びることができたら、そのとき改めてこの文章を読み返して見たいと思います。更に5年頑張ってみたいという気持ちになれるでしょうか?願わくば、そうであればと思います。


すべての基は健康とそれを可能とする日々の精進と心のありようと思います。

サポートを大変心強く思います。