【自問自答②】炎上は人格によって引き起こされるわけじゃないのでは問題

「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があるように、江戸は本当に火事が多かったらしい。

 関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる。
 大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、1801年から慶応3年(1867年)までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。

 twitterやブログ、テレビで見られる、いわゆる「炎上」と呼ばれる現象は、この江戸の火事よりも多い頻度で起きている気がする。

 火事の原因が多様であるのと同様に、炎上も実にいろんなケースがあってとてもおもしろい。無知、告発、差別、不謹慎、不適切、無責任、事実誤認、過度な一般化、ルサンチマン、生存者バイアス、などなど本当にいろんなパターンがあって飽きない。ひとたび炎上が起きると、野次馬根性を発揮してつい眺めてしまう(twitterで炎上しているのを追う、というのは「野次馬」そのものですよね。冷静に考えると。)

 しかも、炎上している案件を見ていると、なんとなく今の時代の価値観、空気感のようなものが伝わってくるような気がするのもおもしろい。「ああいうことを言うとこういう問題になる」というケースワークを国を挙げてやっているようなものだ。

 僕らは、炎上案件をリファレンスにして害のない/傷つける人の少ない(となんとなく世間的にみなされている)対応はどういうものなのかを学習している。実際には、学習というよりは、日本社会における、見えない規範、空気感に対する順応、という方が適切かも。その順応によって、僕らは意図せずして、この曖昧な空気への対処法を学ぶのだ。

 さてさて、火事と炎上のいちばんの違いは、炎上が100%人為的な現象である、ということではないかと思う。

 ツイートした「ただの戯言」は、本来それ以上でもそれ以下でもない、文字通り「ただの戯言」だが、誰かがその発言に問題となる「火種」を発見する。そこに、どんどん同じか違うかは別としてとにかく問題を指摘する人と反論する人が集まって、喧々諤々の議論(というか言い合い、というか、書き合い)が起きることで燃料が投下され、最終的に「炎上」に致る。

 ある案件が「炎上」したかどうかという判断基準は非常に主観的かつ不明瞭であり、炎上したと思うかどうかを判断する基準がない、いうのもこの「炎上」という現象の興味深いところ。そもそもSNSもTwitterも見ていなければ、あるいはテレビなどのメディアが取り上げなければ「炎上」は気づかれない。

 いやー、ここまで書いてみて、炎上って、なんだかとても不毛というか、非生産的なものだなあとしみじみ思う。

 「炎上」に関わるやりとりを観察していると、みんな基本的には「努めて」ロジカルに物事を伝えようとしているのが興味深い。「努めて」と表記したのは、なんとも形容詞しがたい、あのやりとりを「ロジカル」と単純に表記するのに抵抗があるからだ。

 テキストで論理的に書いているのだが、その論理は結論というか感情ありきになっていて、積み上げたというよりは、結論からはしごを渡したようなものになっている。そして、双方の主張は多くの場合変わらない。なので、ディスカッションにもディベートになりえない。

 ただただ感情に論理という衣装を着せてダンスバトルを挑み合うけど、お互い負けを認めないしそもそも勝ち負けなんかない、という、これはもうコミュニケーションとしてぎりぎり成立してないんじゃないかと思う。

 と、ここまでがながーい前置き。

 僕が考えたのは、なぜこういう「炎上」のような、コミュニケーションにもならないような行為が生まれるのだろうということで。

①「(普段振りかざせない)正義を振りかざしたいから」
②「言いたいことが言えない気持ちを他の人にぶつけたいから」
③「自分と異なる意見を受け入れられないから」
④「自分を守るために他人を否定したいから」

とか、理由はこの他にもいろいろあると思うし、正解にも興味がないのだけれど、個人的には「ヒマで退屈な人が多いから」がしっくりきた。言い方を変えると「よい時間の使い方ができていないから」なのかなあと。

 おもしろい本を読んでいるとき、すばらしい映画を見ているとき、好きな人とご飯を食べているとき、家族と一緒に遊んでいるとき、あるいは、趣味の時間に没頭しているとき(僕の場合は山に登っているとき、楽器の練習をしているとき)、そういうときに炎上に関わりたいという気持ち自体が湧いてこない気がする。だって、こういういい感じの時間を過ごすことは、上述の①~④に比べて、遥かに有用で有意義で優先順位が高いと思うから。「自分の正義を主張する」なんて、おいしくごはんを誰かと一緒に食べるより楽しくないじゃん、どう考えたって。これは極めて主観的な意見だけど、でも、そうだと思う。そうとしか言えない。

 別の言い方をすると、炎上に関わるか否かはその人の人間性とはあんまり関係なくて、その人が置かれている環境や状況、つまり「よい時間の使い方ができている否か」の方が関係するのではないか、ということだと思う。

 炎上に見られる非生産的で半壊した一連のコミュニケーションは、歪んだ人格を持った個人によって引き起こされてるのではなく、ただただその人が「ヒマで退屈だから」、「よい時間の過ごし方をしらないから」起きているような気がしてならない。裏を返すと、炎上に関わっているような人に対して、その人格に問題があるような見方をしてはいけないのではないか、ということでもあるのではないかと(「それは問題がある人格の人に会ったことがないからだよ」と言われたら、まあそうなんだけど)。僕もヒマになったら炎上に加担しちゃうのかもしれないなと考えてみたり。

 そう考えてみると、なんかやっぱり炎上ってさらに不毛だなと思うのだ。ヒマならば、退屈ならば他のところに労力を費やせばいいのにと思うけど、でもきっとそういうことじゃないくらいヒマで退屈だから、こういうことになるんだろうなあ。

 そういう意味では、本当に燃えているのはツイートじゃなくて本当はヒマや退屈を持て余している人の吐きだしたガスみたいなものなのかも。火種となったツイートに集まったガスが引火して爆発している様は「炎上」という現象を適切に捉えてるような気がする。

という、なんというか、考えたことを書いてみた。きれいにまとめることの難しさよ。。でもまあいいか。すっきりした!


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