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尾崎放哉と種田山頭火

 題の通り、このノートは尾崎放哉と種田山頭火についてのノートである。

 俺の好きな歌人の一人に、種田山頭火という歌人がいる。旅の途中で山口を通過することになったが、山口県防府市は山頭火の生まれ故郷である。旅を始めた最初はそのことを知らなかったが、岡山から山口に行く途中の電車の中で防府が山頭火ゆかりの街であるとネットの記事で読んだ。山口には山口市に湯田温泉という白狐が見つけたといわれる温泉があり、宿もその周辺に取っていたが、山頭火ゆかりの地を一目見ようと、新山口につく前に防府駅で下車した。

 山頭火は自由律俳句という五七五の方にとらわれない形式の俳句を詠む歌人として知られているが、同じく自由律俳句で有名な歌人に尾崎放哉がいる。放哉と山頭火は萩原井泉水の門下であり、二人は俳句雑誌『層雲』で同時期に活躍していた。この二人に直接の面識があったか否かはわからないが、その経歴には似通ったものがあり、両者とも家柄も学歴も十分にあったがそれらを捨て漂泊の歌人となり、酒癖が悪かった。これらの経歴からもわかる通り、彼らは偏向的な性格、もっと言えば"嫌な奴"だったと言われている。

 尾崎放哉の生涯を大雑把に記す。鳥取の士族の家に生まれ、高校は第一高等学校の法科、大学は東京帝国大学法学部に進み、大学卒業後は通信社、生命保険会社、海上保険会社と職を重ねるが、いずれの職も酒癖の悪さが原因で降格・懲戒となっている。生命保険在職中に妻に恵まれるも、海上保険会社を免職される際に離縁され職と家族を失うこととなった。そこからは京都、神戸、福井と各地の寺を転々としながら創作を続け、最期は小豆島の廃寺寸前の小さな庵で結核により朽ちた。この間、人との交流といえば師匠である萩原井泉水くらいだったと思われる。享年41歳であった。

 その晩年、死の直前に病床で詠んだ句が以下である。

咳をしてもひとり

尾崎放哉

 教科書にも載せられている、おそらく放哉で最も有名な句の一つだ。一般には病床での寂しさを詠んだ句として知られている。

 ここで俺が考えたことは、「果たして放哉はこの孤独というものを高貴で尊いものだとみなしていたのだろうか?」という問いである。偏向的な性格の漂泊の歌人である放哉のことである、ただ孤高でいることの美しさだけでなく、この歌には「お前らのせいで俺は孤高な人選を歩むことになったのだ」という恨み節も込められているのではなかろうか。

 そして何より、果たして、この尾崎放哉の偏屈さを理解できた人は当時いたのだろうか。

 その理解者はほとんどいなかったであろうと思う。ただ、放哉と同様の経歴を辿り似通った性格・考え方をしていた山頭火であれば、ただ一人その放哉の心境を理解することができたのではないか。確証はないが、俺はできればそうであってほしい、数少ない理解者であってほしいと思った。

 その山頭火が句友の早すぎる死を悼み詠んだ句が以下である。

鴉啼いてわたしも一人

種田山頭火

 果たして放哉は理解者の存在しない本当に孤独な存在だったのか。俺はこの山頭火の歌を、たまらなく美しいと思った。

 このノートは、それだけのことを書いたノートである。

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