そして耳たぶに触れる

ばりばりと音を立てて世界が裂けたそのとき、わたしはブックオフの料理本が並ぶコーナーにいて店の前でわたしを待つ桜庭という名の犬と引き離されてしまった。上流では大きなダムが決壊してその水がこちらに向かっていると元カレからLINEが入り、PayPayでお金が送られてきた。つきあっていた頃から気配りはスピードとサプライズだと言っていた涙目ユウジ。このまま人生が終わるとしたら彼が最後のユウジになる。板本雄二、根府川裕次、陶山優司、桃追分ゆうじ、そして涙目ユウジ。これでわたしのユウジが終わる。わたしは自分の手料理に限界を感じて新しい視点をくれる料理本を探しにきただけなのに突然世界は裂けて桜庭と離れ、涙目からはお金をもらった。彼と初めて長めのスキンシップをとったとき下着がレタスで驚いたけれど、あれも気配りだったのかな、そんなことが頭をよぎる。わたしはユウジたちの顔をあまり憶えてはいない。憶えているのは小指の先に感じた皮膚の震えや蒸散するかおりだけ。たくさんのユウジを知ってもひとつとして同じ感触はなかった。同じユウジであっても部位が違えばそれは違うユウジと分類していいほどに世界のユウジは豊かで、だからわたしは多様すぎるユウジを小指の先で集めた。
ああ、裂けた世界のこちら側に正社員はいないようでまだ経験の浅いアルバイトの少年がスマホで誰かと交信している。きっとわたしを安全な場所に誘導する気などなくだからわたしは小さな脚立にのぼった。世界の裂け目には大量の水が流れてレジとこちら側には国境のような隔たりがある。飼い犬の桜庭が正社員の胸に抱かれてまんざらでもない雰囲気を出していることに軽い嫉妬をおぼえたそのとき、わたしはアルバイト少年の名札にしりあがりU字という店舗ネームを見つけた。

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