のり〜パンチ力の愛〜

仕事が忙しくてなかなか家に帰ることができず、一旦帰っても簡単なダンスと睡眠だけで洗濯する時間もないまま出かける日々。下着には半割りのアボカドや手編みの春菊を使い、玄関には種や茎が転がっている。そんなわたしの息抜きは銅像の自由な配置。誰かの見慣れた風景に違和感と無秩序を少しだけ。

じゃあはじめるね。
わたしには「パンチ力」がないの。
そう書くと「かよわい」みたいで「力よわい」感じがするけれど、よくよく見ると「ぱんちか」って書いてある可能性に気がついて「ああ、パンの地下か」って思う自分と、パンの地下ってなんだよって力む自分がいて、ここでまた「りきむ」と「かむ」に分岐することで物語なんて進むはずがなくて、進めるつもりもなくて、そんな自分にガッカリする。
これだって正確な読みは「ガッちからリ」だし、手書きなら「ガッちからソ」にすることだってできる。わたしの自由。ジュー。じゅー。
そうなれば言葉はもう無限に広がって、なんかもう全能感だよね。そう、全国農業協同組合連合会ってこと。もうさ、JAとか全農とかが文学的に見えたら人生勝ちなわけ。「おもんない」とか「時流とちがう」とか笑っちゃうよね、好きにやんなさいよ、と、このあたりで募集要項をはじめて読むわけ。読んでしまったら当然だけどテーマに沿うわけでしょ、なんとなくこっちとか、あっちとか、まあ限定がはじまるわけで、それはまた愉しいことでもあるわけだから、きっとなにかを書くときは縛られたいときと放たれたいときがある、なんて座右の銘になるのかな、などとテーマについて考えはじめているから、もうわたしには全農のころの自由さはないわけ。ジューとか書いてたわたしは過去でしかなあ。
今、語尾を「あ」にしたのは「なあ」って書くと猫っぽくてかわいいでしょ、急にジューを取り戻したくなったの。
おしっこ、じゅー。
そうそう、前に鹿児島に行ったとき、呑んだ帰りに「のり一」っていうラーメン屋があって、とっても安くておいしかった記憶があるんだけど、わたしは心の中でいつも「のりいち」のことを「のり〜」って呼んでる。そう、玉置浩二が愛する彼女を呼ぶときみたいに。だから「第一座右の銘」っていうのも、「のり〜座右の銘だよ〜」みたいに読んじゃったから、だったらそれは「のり〜愛してるよ〜」のほうがよっぽど玉置浩二っぼいなって思うの。
だから座右の銘とかはよくわからないけれど「のり〜愛してるよ〜」みたいな感じには書けた気がして、だからこれで終わりにしますね。
冒頭にさっき書いたばかりの路上観察小説を置いたのはなんだか座右の銘っぽいなって思ったからで、それはまあそんな気がするだけの偶然でしかないのだけど、まあじゃあ、また、タイミングが合えばここでお会いしましょうね。みんな愛してるよ〜

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