この世がいかにマトリックスだと思わされているか

楽しみにしていたマトリックスの映画を観てきた。三次元であるこの世界の有るものは実話マトリックスだった、というこの映画を初めて見た時は、あまりピンと来ていなかった記憶がある。周りの人たちの映画に対する評論を聞いて初めて、この映画の伝えたかったことと向き合えるようになった。そこからその視点で様々な映画と向き合えるようになったことは事実であるが、よくよく考えてみれば、その他者から伺うこのような概念こそがマトリックスなのではないかと、今回の映画を観て感じた。良い悪いは一旦置いておいて、いや置いておかなくてもいい気がする。この二項に分けられた物事の捉え方こそが、まさにこの映画の本質なようにも思えるからだ。陰と陽、光と影、男と女、善と悪、この視点から物事を見た時、自分はどちらを選ぶか、そしてその選んだ物同士で集い、同じ価値観同士で輪になり、その輪以外の者は他者としてみなし、ある時は敵対することもある。その果てには戦争といった人類同士で殺め合う、全く無意味とも思える行動にまで及んでいるのが、この人類の歴史なのだ。挙げ句の果てには戦争自体を肯定的に捉える人もいる世の中で、全くどうしてしまったのか疑いの余地もないほどに人類の感覚は様々なものに撹乱され、鈍り、本来の生命の在り方を見失うところまで来ているように思えて仕方がない。良いも悪いもどちらでもなく、どちらでもあるという間に立って物事を見据えられる人というのは、極少数の人に限られ、その人たちですら危うく中途半端なところで留まりかねない状況に見える。僕は人の話を聞くことが好きで、話を盛り上げることは長けているようだと最近気がついた。というのも、相手の話そうとしている本質を見出し、そこに対する自分の見解を質疑応答する中で、話し手と聞き手の融合ができて初めて対話が成り立ち、お互いの気持ちの一致、共感からくる一体感の中で繰り広げられる会話というのが、時間を忘れてつい盛り上がってしまうということがよくある。お互いの主義主張は大いに合って良いと思っている。むしろそこの意見をはっきりと主張し合えるからこそ、深みのある会話に展開することができるので合って、一方的な会話は先生や師匠だと思える方の話を聞くときぐらいだ。その時であっても僕は、疑問に思ったことや、感じたことはその場で質問をするようにしている。その中で、話し手のツボをくすぐるような質問ができたときは、タムレスに突入することができて、時間という枠から外れることができる今のところの唯一の方法だ。そこで何を優先して選択をするのか、それは僕が決めれることではないし、僕に決定権なんてない。しかし、もう少し話をしていたいと思ってもらえるような話の聞き方ができた時は、お互いに気持ちの良い時間を過ごせているのだと、僕は勝手に思っている。忙しい方との会話の時ほど、それは顕著に現れる。次の予定が控えている、しかしもう少し話していたい、時間を少しオーバーしてもらえるほど、話が盛り上がれば、後の選択は委ねるしかないのだが、僕は諦めずに粘ることをいつも選択する。もっと話が聞きたい、もっと話をしたい、お互いの気持ちに一致があればそれは大いに優先するべきことだし、次の予定が遅れた言い訳なんてのは、移動の最中に考えればいいことで、下手な言い訳なんかすることもなく、話が盛り上がったと打ち明けた相手ともまた、話が盛り上がれば良いだけだ。そこの世界に入っていけることが、僕なりのマトリックスから抜け出す方法の一つとして見ている。予定調和的に決められたことを決められたように物事を進めることも大切なことではあるけれど、誰が決めたのか知らない時間をいう枠組みの中で、連鎖的に発生していく予期せぬ物事の展開、進展こそが僕はたまらなく好きだと確信している。一種の反骨精神がなくもないが、神はからいという言葉があるくらいだから、人が予定している世の中にある目的なんてある意味でそこまで重要なことなんてほとんど無いように僕は思っている。無意味だとは思はないが、後からいくらでも何とでもなるだろう、なんとかできるだろうと心底思っている。それが良いのか悪いのか聞く人によっては信じられないと一括されそうな見解を述べているが、これは僕の意見を素直に述べた物だし、僕の真実だから仕方がない。かといって常々予定を守っていないかといえばそんなこともない。守れていないことの方が圧倒的に多いのは事実ではあるが、必ず厳守しなければならないと躍起になってまで守ろうとしてはいない時もある。守るときもある。これが事実、僕のリアル。その時その時の僕の選択次第で、その次の未来が大きく変わる。赤いカプセルを飲むのか、青いカプセルを飲むのか、時と場合によることはあるけれど、大体の場合、僕は迷わず赤いカプセルを飲み続けた人生を歩んできている。その結果、沢山の方々に迷惑をかけてしまったこともあるし、どんでもない不祥事を起こしてしまったこともある。その都度、僕なりに真摯に向き合わせて頂き、謝罪をして、また次に進む。今思えば謝罪ができていない時もあった。それは申し訳ないと僕の中にいつまでも留まっている。そうやって一つ一つの出来事に対して、どれだけ真剣に向き合えているのか、そしてどれだけやり尽くせているのか、その結果が全てを物語っていて、その結果の現実が今、目の前に繰り広げられている僕の三次元の世界であり、僕のマトリックスなのだ。人それぞれのマトリックスを生きている中で、どのタイミングで、どの場所で、どんなシチュエーションで巡り合い、融合するのかなんて僕には全く分からない。全てが神はからいと捉えればその通りなのかもしれないけど、確かにそう思えてしまう展開に発展することがよくあることを思えば、この宇宙全体の星々の中のたった一つの惑星の中の、地球に生きる70億分の1の人類である僕の世界は、なんとも面白いとしか思えない。明日何が起きてどうなるなんてまるっきり分からないけど、ある程度はこんなことをして見ようかなという予定は立てている。それもどうなるか分からないし、また面白そうな風が吹けばすぐに吹かれて飛んでいきかねない僕の生き方は、あまりにも無鉄砲であまりにも無頓着で、あまりにも無防備すぎる。それでもこんな僕には家族がいてくれて、子供も2人もいてくれる。今はまだ8歳と5歳のちびすけだけれど、段々に話す内容も変われば身体的な成長も著しい。尽きない欲望にまみれたこんな父ちゃんだけれど、子供たちが大きくなって、38歳と僕と同じ歳程になったとき、どんな会話が繰り広げられるのか、楽しみでならない。人類が未だ見出せていない哲学の本質、それは人とは?というシンプル極まりない単純な疑問に対して、どこまで真剣に向き合い、悩み、闇に包まれた中で頭を抱え込むか。そしてその先にある一筋の閃きの中で僕たちは対話し、生きる知恵を見出しながら、ともに歩める仲間をどれだけ見つけることができるのか。たった一つの命が繰り広げる物語の一章は、あまりにも尊くあまりにも有り難いことなんだと、いつの日かこんな話で盛り上がれれば、僕は幸せである。今回の映画でもあったように、お互いを思い合える力ほど強力なものはない。そんなふうに僕は思えた。引きつけ合う2人が交わった時、予期せぬ化学反応が起きて、信じられない何かが目の前に起きる。それは決して予定して生まれるものではないと思うし、その起きた現象こそを僕は神はからいと言いたい。祈りや願いは誰かを思った時に力を発揮し、それはいつか叶うなんて安っぽいことは言いたくないが、信じる気持ちが宇宙と融合した時、それが宇宙が必要としたとき、現実世界に現れるのだとしたら、僕は100%の気持ちで信じて、神はからを待つ楽しみを楽しめる人生を歩みたい。ミクロの世界では素粒子の集合体で万物は出来上がっているらしいので、意識する念も素粒子として物質化して現れるという話も聞いたことがある。だとすると尚更、一人一人が意識する素粒子がもたらす影響を信じたときに、どんな素粒子を普段自分は飛ばし続けているのかが大事なポイントになってくる。ともすると世の中をひっくり返せるとも言える。それは大いに楽しみではないか。何を考え、何を思うのかで目の前の世界が変わっていくのだとすれば、未来は自分自身で如何様に変化変容させることができ、それが叶った時は宇宙と繋がったサインだと捉えることもでき、それこそが今後の人類が目指す進化なように僕は思える。僕はその進化を楽しむ素粒子を普段から飛ばしているようにしよう。あとは最適化される神はからいに委ねます。

以上

中今吉凶

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?