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小説 無題3/4

君の仕事のことなんだけど。

やっぱり。

夫は人が何かをする時に反対するタイプではないから、私が今の仕事を始める時も止めはしなかったけど、一度だけ意味がわからない、と言われたことがある。

私は作家を目指したことがあった。

昔から文章を書くのが好きで、書き溜めた文章や物語を小説投稿サイトにアップしていたら自分でも驚くほど話題になった。

そのうちプロの目に止まるようになり、褒められて有頂天になった。

ある時、出版の話を持ちかけられたが、自分の作品が自分の作品じゃなくなっていく過程を目の当たりにして嫌になり、やめてしまった。

で、今、結局作家をしている。

でもネットには出さない、本になることも望んでない。

ひとりひとりに寄り添った癒しの物語。

私の物語を書いてくれませんか?

ある人に頼まれたのがきっかけだった。

面識のない女性。

意味不明だったし、最初は戸惑ったのが正直なところ。でも怖くはなかった。

結局引き受けた。

ひとことで言えば直感。私の中の澄んだ領域で、水晶が熱に反応したから。

彼女をイメージして物語を書き始めた。

薄紫色の世界。生を受けた彼女が様々な経験を通して自分を形作っていく。

キーボードを打つ手が追いつかない程のスピードと臨場感。

全身を巡る未知の快感と共に、私は完成まで、ほぼパソコンの前から動かなかった。

それなのに、結果は困難を極めた。事前に軽くインタビューした彼女の半生に、物語が全く沿っていかない。何度も何度も書き直し、修正しても、いつの間にか逸れていく。

今までの執筆経験で、こんなにもジレンマに苛まれたことがあっただろうか。話を書くということは、例え他人の人生を描くのであっても、結局は自分の人生から溢れ出る物語を文字にする作業になる。だから当然といえば当然。

彼女なりの理由があって、生きてきた軌跡を物語にすると決断し、その大役を私に託してくれたのに。

ごめんなさい。お力になれなくて。

申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

でもこれ以上は無理だと思った。

待ち合わせたカフェで、彼女はミルクティーをひと口飲んでから最新版の原稿に目を通す。

そしてポツリと言った。

これ。これです。私が読みたかったの。

いつもいつも、ずっと求めていたんです。

ありがとうございます。

続きは自分で紡いでいきますから。 

その目は輝いていた。

つまり、彼女の過去を物語にすることが答ではなかった。

呆気にとられた私の元にはいつしか口コミで依頼が来るようになり、気がつけば癒しの作家という職業になっていた。

何がきっかけになるかわからない。

もし人生に分岐点があるとすれば、私にとってはまさにこの時がそれに当たる。

続く




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