ある莫迦の憧れに憧れた今まで やり直し 2



水泳が好きでした。子供の頃から得意でした。夏になれば家の近くの海や、父方の田舎の川でよく泳いで遊んでいました。その中で、我流の泳ぎを身に付けていました。今思うと、日本の泳法にある横泳ぎみたいなものだったと思います。小学校の5年からスイミングスクールへ通い、4泳法、クロール、バック、平泳ぎ、バタフライと身に付け、選手育成コースへいこうと必死に練習してました。ただ、どうしてもタイムが伸びず、小学校を卒業と同時にスイミングスクールも卒業しました。
中学校に上がり、ひと月も過ぎた頃だったと思います。新生活にも慣れ、いつも通り学校へ行く準備をし、朝食を食べました。さて、行くかと椅子から立ち上がり、ひとつ伸びをして、僕はそのまま倒れたそうです。で、床でばたばたと痙攣していたと。記憶に残っているのは、意識を取り戻し目が覚めた時の画です。レースカーテンから、柔らかい光が射し込んでいました。ぼんやりとその暖かさが心地好く、定まらない視線で見ていたのを覚えています。音は聞こえていたのか、なかったのかは覚えていません。パニックになることもなく、只々、その心地好い光と暖かさの中で、仰向けに転がっていました。視線を上へ向けると、母が僕の顔を覗いていました。僕は母に膝枕をされていたようです。偶々、隣に住んでいたのがお医者さんの一家だったので、母は助けを求めたそうですが、救急車を呼ぶ必要はない、落ち着いて意識を取り戻したら病院へ連れていきなさい、と言われたようで、そのまま膝枕をして起きるまで寝かしていたようです。
僕が意識を取り戻し、まだふらつきながらも動けるようになってから、近くの病院へ行くと、脳のCTを撮るということになり、そのままベッドへ寝かされ運ばれました。造影剤を入れる為に右肘の内側を少し局部麻酔してから切開し、静脈へ管を入れ、心臓付近までその管を送り、そこで造影剤を出す、と説明をされたのを覚えています。僕は意識は取り戻しているものの、まだ現実感というものがなかったので、ただ、はあ、と分かっているのか、分かっていないのか、ひどく曖昧な生返事をし、されるがままになっていました。たしかに腕を固定され、針を刺され、麻酔が効いてきたらメスを入れられているのを見ているのですが、不安とか、恐怖とか、そういった感情は何もなかったです。茫とそれを見つめていました。管が所定の位置へ届き、これから造影剤を入れるが身体が熱くなるように感じるけれど大丈夫ですから、と言われ、それではいきますね。の言葉を聞くと、本当に身体中が熱くなりました。と同時に、その部屋のモニターに映る自分の脳に、血管が黒く浮かび上がっていくのを見るのは、なかなかできない経験だったのかもしれないな、と今は思います。その後は脳波を調べ、しばらく待合にいると診察室に呼ばれました。脳の血管には異常はないとCTを見せながらの説明、次に、脳波を記録した長い紙を見せてくれました。そこには、その紙を出鱈目に線で塗り潰したかのようなモノがありました。
「癲癇ですね。」
人間の脳の中には電気が流れています。外からの刺激等によって色々反応する時は、その反応をするように電気が流れます。僕の脳は、そんな綺麗に何かに反応しているのではなく、無茶苦茶に放電していました。薬を飲めばコントロールはできるだろうと言われましたが、こちらはまだ、頭の中がばちばちと放電している真っ最中なので、理解はできていなかったと思います。そのまま僕は、一週間程入院し、退院したら普通に通学する生活に戻りましたが、夏になり、体育の授業にプールが出てきた時、喜んでいたら学校から、お前はプールは見学しなさいと言われ、暑い中、プールサイドから見ていることしかできませんでした。一番得意な運動で好きなものを取り上げられてからは、なんというか、面倒くさい内容の時はもうサボろうと思うようになりました。好きなことしかやらない。好きを頑張る。どうせ何をしたって制限されるのだから、もう知ったことでは無い。得意な分野と、苦手な分野が、極端に別れていきました。平均は、もう、いらない。


今日はこんな記憶。相変わらず文体がばらばらだね。一応、一人称くらいは決めておくかと「僕」で統一するようにはしているけれど、それもいつまで持つものやら。


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