ビューティフルと次元の違い(自己解釈)

①「僕」の立場

ビューティフルの「僕」は、この曲において脇役である。君を「支えたい」し、「決めるのは君次第」らしい。つまり、この曲で行動を起こすのは常に君だ。

じゃあ「僕」は何なんだ?という疑問が出てくる。「僕」要るのか?と。

結論としては、要る。なぜなら、ビューティフルという曲が応援ソングなのは「僕」がいるからだ。

②次元の違い

「狂いそうになって 塞ぎ込んだって〜」の所とか、「虚無 悪〜」の所とか、結構な闇だ。

実際に狂いそうになって塞ぎ込んでいる人は、普通は自発的に「頑張ってる私は美しいから頑張ろう」とは思わないのではないだろうか。ではどうなればそう思うかというと、誰かにそう言われることだ。誰かに言われて初めてそんな気がしてくるのである。
これを言う担当が「僕」だ。それがビューティフルが応援ソングである所以であり、「僕」が必要な理由でもある。

しかし、闇の中でもがいている人に対して外野から「きっと苦しいと思うけど頑張ってる君は美しいから頑張って」と言えるだろうか。それも、同じ人間が。無責任かつ傲慢じゃないか?

とはいえ、これを無責任かつ傲慢に言っていい存在がある。高次元の存在だ。
例えば、我々にとっての神。神の言うことなら無責任でも傲慢でもない。神の立場から矮小な人間が頑張るのを美しいと思うのは自然だし、神がそう言ってくれたなら人間も頑張る。これが「響き合う」ということだろう。
こういう次元の違いによって美しさを見出す高次元の存在は他にもある。動植物や架空の人物にとっての現実の人間、テレビに出ている人物にとっての茶の間の人々もそうだし、同じ世界に住んでいても互いに深く関わっていなければ次元の違いが発生する。これらの存在は対象の内情を体験もしないで己の価値観で彼らを美しいものと扱うことがあるが、美しいと思って本気で愛でたり人生を変えられたりもする。
実際に「僕」が神なのかは断言できないが、割とポジティブな響き方ができるタイプの高次元の存在であることは間違いないと考えている。しかし、歌詞のスケールが大きいことやMVがなんとなく怖い(=畏怖)ことから、私はその中でもほぼ神だと思っている。主観ではあるが。

③応援ソング

そんな高次元の存在の「僕」は、君のことを応援している。
というより、応援以外できない。次元が違うからだ。テレビの前でテレビの中の人を応援はできても、実際に手伝うことは基本できないのである(紅白歌合戦や総選挙的なやつのように投票が前提かつ生放送かつデータ放送やSNSとかを駆使すればどうにかなるかもしれないが、相当限られた状況である)。

つまり、応援しかできない「僕」は主体ではないのだ。「支えたい」と言っているが実際に支えられているか、また支えるために有効な何かをできているかは別の話だ。
確実に主語に「僕」を含むといえる歌詞といえば「響き合うよ僕らは」しかないが、響き合うというのは「僕」の能動的な行動ではない。

とはいえ、「僕」は真剣に君のことを応援したいと思っている。だからこその「応援ソング」だ。虹や栄光の架橋も応援ソングに分類されるが、ビューティフルはそれらのような対等な寄り添い方はしていない。立場が対等でないという点で全く新しいタイプの応援ソングなのではないだろうか。
なお、実はこの曲も普遍ではないかと考えている。一見聴く人間を応援しているように思えるが、この曲を聴く人間は「応援する方」にも「応援される方」にもなれる。
そして、「応援する方」は、今度は「応援される方」に回るのである。この逆もある。これが「響き合う」ではないだろうか。

④闇と美

高次元の存在は、低次元の存在の闇を構成するものまで美しいと思っていないことがある。人間にとってドブ川に住む魚が美しく育つのが好ましくても、ドブ川そのものは好ましくないように。
それでも、この「僕」は闇の部分から目を背けていないのだ。対等にはなれなくとも誠実でいようとしているし、対等になれないことを分かっていて全力で応援している。それはとても真摯であり、「響き合う」のに効果的な姿勢だろう。

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