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踊り続ける

踊り続ける人々を眺めるのがすきだ。
とんだりはねたり回ったり空に手を伸ばしたり
身体的な動きにやはり目を奪われるけれども
もしも彼らに憑依できるのなら彼らの視線がどこからどこへ移っていくのか、身体が躍動しているその一瞬に捉えた景色がどのように記憶されていくのか、シャッターを切るような断片的なものなのか全てはひとつの景色として統合されていくのか、そういうところに興味がある。
その目に何が映っているのか。

モノや人、はては世界を軸にして踊り続ける人々が360度全方位を完璧に把握しているとは断言できないけれども少なくとも物事を見る柔軟性は自ずと備わっているような気がしてならない。
身体的な可動域の広さと精神的な可動域の広さにおける相関性。

見る角度を変えれば全く違った景色が見える。
踊り続ける人々はそれを身体で知っている。
プリミティブな感覚を宿しているように感じる。
同じ場所にいつまでも留まっている人からすれば想像もできないことなのだろう。
皮肉めいたことを書きたいわけでもないけれど
自戒も込めてみんなもっと自由に踊り続ければいいのに、なんて思う瞬間もあるにはある。

ねぇちょっと立ち上がってさ、後ろから見てみなよ。あのひとの背中、見たことある?
あのひとの横顔、見たことある?

すべてが平面的で一方向からしか見ようとしない人間に遭遇するたびに呟いてしまう。
もちろん自分にだってそういう瞬間がないわけではないから自分自身にも言い聞かせる。

紙に描かれた絵じゃないんだからさ人間は。
人間には温度があり厚みがあり感情がある。
それらは絶えず変化し続ける。

出会えたひとを軸にしてぐるりぐるりと踊り続けていたい。耐えうる限りありとあらゆる角度からそのひとを眺めていたい。
踊り続けるひとびとに羨望と尊敬の念がわいてくるのはたぶんそういうことなんだろう。

わたしは踊り続けられるだろうか。
一体いつまで身体と心に柔らかさを宿して生きていけるだろうか。
取り囲まれ押さえつけられるたびに怖くなってしまうけれど、そういうものに未だとらわれてしまう自分を潔く認めるところから始めなければならないのだろう。

怒りも悲しみも苛立ちも受け止めてみせる。
わたしの目に映る現実は必要だからそこにあり続けるのだろう。

踊り続けていたい。
そうしていつか手放すのだ。
ここにある全てを。
何もかもを。

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