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ドーナツホール

空けようと思って空けたわけではない。
空いてしまったのである。
入ろうと思って入ったのではない。
いつの間にか入り込んでしまったのである。
だからただじっとしている。

そこにはたしかに隙間があって普段はすっかり忘れているのに気がつけば入り込んでいる。
辺り一面揺れていてパチパチと弾けている。全ての輪郭が曖昧で毎晩見上げていたはずの星さえ思い出せなくなる。だから雲ばかり見ている。
いい天気だな。

こんなことは前にもあったような気がするけれど
なにしろ遠い昔のことでぼんやりとしている。
別に大したことではない。
生活に支障をきたしているわけでもない。
むしろ心乱されることもなく静まり返っている。時にどうでもいいような感情に悶え苦しむけれどそれは自分の問題で誰に介入されることもない。

こんな時は扉でも開けてみようか。
普段は開けることのない扉。時々開けては閉める扉。二度と開けないと誓った扉。
いくつもの扉の鍵をじゃらじゃらと鳴らす。
何か買ってみようか。髪型でも変えてみようか。
勢いでゆるいパーマをかけてみたが元々くせ毛であるせいか職場で誰にも気づかれなかった。
ほっとした。キタニタツヤみたいになった。
数日後にはメデューサになることが分かっていても個人的には気に入っている。

先日ぼんやりとSNSを彷徨っていたら亀の甲羅クッションを見つけた。背負えるらしい。欲しい。
わたしは亀になりたい。いや違うなあの映画のタイトルはたしか。私は貝になりたい、か。
必要不可欠ではないけれど家族の誰かが時々亀になり椅子に座って勉強したり炬燵でごろごろしていたりいたら微笑ましい気持ちになれるだろう。
しばらくしたらわたし一人が甲羅を背負い洗い物をしたりお風呂を沸かしたりそのまま布団に寝転がったりするのだろう。
今の自分に必要なのはおそらくこういうものなのかもしれない。期間限定の無駄な必需品。正しさを揺るがすもの。肩の力が抜けるもの。自虐ではなく単純に自分で自分を笑えるようなもの。
着ぐるみを脱ぎ捨て亀の甲羅を背負うのだ。
カチッ。
空白が少し埋まった。

ハートで埋め尽くされた圧縮袋に包まれて注文した商品が届いた。取り出してみると思いのほか大きかった。カメだ!亀だ!けっこうリアル!
どうせ着るなら亀らしくならないと。
ねぇちょっと今からひっくり返るから起こして!
見ててよ!亀みたいにやるからね。亀みたいに。
ゴン。フローリングに響き渡る鈍い音。いたい。
ほんとにもう。
かめってさ、たいへんだね。
にんげんも、たいへんだけどさ。
あーあ、アイスでも食べよ。

じっとしているわたしの前を雄大な亀が泳いでいく。亀は意外と速く泳ぐ。見ていて飽きない。
寝転がって漫画を読む亀。台所に転がる亀。
お菓子を食べる亀。

わたしたちは侵食されていく。
いつだってぎゅっと固まって身を守っている。
誰一人傷つけられることのないように。
不敵な笑みを浮かべながら亀がするりと入り込む。悪い気はしない。
わたしがいない間もきっと誰かが亀の甲羅を背負い飽きたら座ってみたりしてくつろぐのだろう。
昨日は脱ぎ捨てられた甲羅の上に綺麗に畳まれた洗濯物が重ねて置いてあった。

空いてしまった何かは誰かが埋められるものでもない。入り込んだ隙間から自力で這い出すほかはない。そんなことはわかっている。埋まると思っていたものが容易く埋められると思っていたものがどうしてこんなに手こずるのか。それが不思議でしょうがない。形がないからか。
もうこのままでいいやなんて一瞬思ったりもする。埋めようと意気込むから駄目なのだ。

あんまり眠れなかったので深夜にひとり亀の甲羅を背負いながらミルクティーを飲んだ。
あったかい。ミルクティーが?いや甲羅が。
抱きしめられているみたいだ。いや抱きしめているのは自分か。よしよし。よしよし。
形にできるものなんてここにはひとつもない。
でもきっとそれでいいんだ。
ドーナツホールは必要だから空いているんだ。
誰かが覗き込めるように。

ドーナツホールを覗いたら遠くの誰かと目が合った。


カチッ。

空白がたしかに埋まる音がした。









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