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あの頃の日常はもう日常ではない



毎朝6時10分に起きて、朝ごはんを食べた。
近所の子どもたちで編成された班で、7時5分に集合した。
集合場所は、私たち姉妹の家の前。
4kmの道のりを、1時間かけて通学した。
通学路には田んぼと畑ばかりが広がっていて、小学校に着くまでに通過する信号は3つだった。

夏休み、飼育当番で夏休み中に学校に行くのは、何故だかそれほど億劫ではなくて、帰り道は、近道と称して涼しい竹薮を通って帰った。
冬の登校時には決まって地面が凍っていて、滑りながら歩いたりした。
けれどもよく考えたら、無口な班だったように思う。
班員の子たちと話した記憶がほとんどない。
恐らく、無言で1時間歩いていたのだと思う。

全校児童1000人弱の小学校だった。
学校の裏にある、通称裏山には、カミナリ穴という、大きな穴があった。
真偽は定かでないが、雷が落ちた時にできた穴だという。
ザリガニ池という池もあった。
そこにはたくさんのザリガニが生息していて、男の子たちがよくザリガニを釣って遊んでいた。
男勝りだった妹も、ザリガニ池でザリガニを釣ってきて、一時期家で育てたりもした。
子どもの小さいザリガニは、とても可愛かった。
そんな裏山はとても広くて、休み時間に少し奥まで行ってしまうと、チャイムが聞こえなくなるほどだった。

私たちが進学する予定だった中学校までは、自転車で40分。
例に漏れず、ヘルメットをかぶって通勤するという、田舎によくある決まりがあった。
結局引っ越してしまったから、通わなかったけれど。

登校時は班で向かうけれど、下校時はばらばらだったので、一人で帰るのではなく、友達と帰りなさいと、先生にも親にも、よく言って聞かされた。
けれども恐らく、わたしは比較的、一人で帰ることが多かったように思う。
あの頃から人を誘うことが苦手で、一緒に帰ろう、と言えなかった。
今以上に人見知りだった。
転校してきたから、余所者である感覚もあったのかもしれない。
小さい頃はよく一緒に遊んだのよ、と言われて親同士が仲良くしても、そんなことは覚えていないし、幼い頃からずっと一緒に育ってきた他の子と遊ぶ方が、私と遊ぶよりも楽しそうに見えた。
お互いに気を遣っていて、私も相手に壁を作ってしまっていたのだと思う。
エセ幼馴染の子たちといるのは、少し、気まずかった。
その頃から、大人数の輪の中では無口になってしまう習性があったように思う。

クラスの中での方が、ずっと楽だった。
当時は認識していなかったけれど、私はクラス替えが好きだったように思う。
何故ならば、人間関係をある程度清算できる機会だからだ。
転校してきた小学2年生を終えて、3年生になってからは、随分と活発であったように思う。
思うに、あの頃の私には、ちゃんと真っ直ぐに自尊心が備わっていた。
屈折した自己肯定感とか、そんなものを持ち合わせていない、言葉どおり、純粋な子どもだった。
勉強が得意だったことも自信に繋がって、授業中もそれなりに発言する子どもだった。

ほとんどの勉強はすんなり理解できた私だったけれど、感覚が追いつかなくて、習ってからしばらくの間苦手としていたのが、2桁以上の割り算の筆算だった。
割る数が2桁以上になった時、何の数字を立てればちゃんと割れるのか、導き出すのに時間がかかった。
リンゴ病にかかって、習っていたスイミングを休んで祖母の家にいたとき、いつも宿題なんてすぐに終わらせてしまう私が、この問題について相当時間をかけて、何度も消しゴムで消して、問題を解いていたのを憶えている。

宿題といえば、思い出すことがもうひとつある。
学校に行くために起きると時々自分が解いた宿題が、テーブルの上に出されていることがあった。
朝ごはんを食べる前に、母親に言われる。
「プリントのこの問題、もう1回やってごらん」
怒られるわけではなかったように記憶しているけれど、そうやって、間違っている箇所を指摘された。
今思えば、それは少し、やりすぎなのではと思う。
先生の前で間違えて欲しくなかったのかもしれないし、ケアレスミスなのか理解ができていないのかを確認しようとしたのかもしれない。
その真意は分からないし、今更聞く気もないけれど。
今でもたまに思い出しては、その真意を汲み取れずにいる。

私が覚えている限り、最後の兄弟喧嘩をしたのは、小学4年生の時だった。
小学校のとき、クラブ活動が始まって、バトミントンクラブに入った私が買ってもらったラケット。
そのラケットの網の部分であるガットが、買って早々に切れてしまったのだ。
その時ラケットを使っていたのが妹で、私は泣きながら怒った。
もはやこれが喧嘩だったのか八つ当たりだったのか、分からないけれど、少なくとも私の中では、これが他者に対して、感情を露わにして怒った最後の記憶だ。

基本的にはいつも、妹と弟の希望を優先し、自分の希望は後回しにしていた。
例えばいくつかの種類のお菓子から好きなものを選ぶとき、いつも妹と弟が選んで、それから私が選んで、最後に両親が選ぶという流れだった。
余りにも聞き分けが良いこと、自分の希望を言わないことを心配したのか、何かを選ぶ場面で、まず1番に私から選ぶようにと両親から指示された時期がある。
本当になんだっていいのに、と言いながら、大抵の場合、1番近くにあるものを選んでいた気がする。
きっとこの頃から、自分の意思が希薄だった。


*


特に理由はないけれど、ふと小学校の頃の光景を思い出したので、記しておく。
わたしが小学校2年生から4年生までを過ごした地での、記憶。