愛。
中絶。何人の女性が経験したのだろうか。
4月2日。今日は人口中絶手術当日だ。
1週間前に妊娠が分かってから色々考えた。
相手の方との話し合いの結果
そういう結論に至ったのだ。
正直、終わってから考えると間違った選択を
していない、愛する我が子のために選んだ選択だ。
平成、令和の親は馬鹿ばっかだ。
勝手に産み勝手に育て勝手に働かせる。
産まれたときから死ぬか、生きるかの2択しかない。
オペ室に入り、担架に固定された。
変な器具を沢山つけられた。
点滴を撃たれ、点滴の針は気持ちよかった。
麻酔をいれるね、と助産師が言った。優しそうなおばあちゃん助産師と肉付きがいいおばさん助産師がいた。麻酔が少し効いてきた。
ふわふわして少々意識が朦朧とし始めた。
最初は気持ちよくて眠ってしまいそうだった。
身体から肉体、細胞が溶ける感覚かな、とりあえず全身の力が抜ける、そういう感じだった。
膣に、私の可愛くて愛しいおまんこに
何かいれられた、なんだったのか
わからない。気持ち悪かった。怖かった。
泣いた。なきわめいた。
なんで泣いたのかわからない。
オペが始まってから終わりオペ室から病室の
ベッドに横たわり、それからもなきわめいた。
呼吸が、できなくなるくらい泣いた。
細胞、肉体、精神まで破壊されていった。
意識は朦朧としてたから泣いた以外何も
憶えていない、どうやってオペ室から
病室まで運んでもらったのだろうか。
担架から車椅子に移して貰ったのだろう。
そんなことを考えながら横たわり再び泣きながらやめてよ、やめて、やめて、殺してくれ、
全員ぶっ殺してくれと叫んだ。
ひとり取り残された病室で。
ふと、ナースコールの電話を見る。
電話に書かれた番号の数字が歪んで見えた。
324。
それが宙に浮いていた。
ただ数字が浮いて、歪んで、見えた。
吐き気がした。吐いた。得意の寝ゲロだ。
ナースコールを呼び、おばあちゃん助産師が
来てくれた。手術前に何か食べた?って
聞かれたが食べてない、と答えた。
手術前にリンゴジュースを飲んだから
だろうと思った。
それから幼少期から今までどんな人生を
歩んできたか、曖昧な意識の中で少し考えた。
あまり思い出せなかった、いい思い出なんかなかったのだ。そしてまた泣いた、と思う。
2時間くらい経った頃だろうか。
麻酔が切れ、意識が戻ってきた。
窓の外を眺めながらイヤフォンをして
大音量で音楽を聴いた、美しかった。
そして手術着から私服に着替え、重い足をあげ
受付に行き、領収書を受け取り、
帰りのタクシーを拾った。
幸いにも、待たずにタクシーに乗れた。
寝ゲロしたおかげでマスクが汚れ捨てたから
マスクはしていなかった。
タクシーの運転手はマスクは?と言った。
私は手術した帰りで持ってないと言った。
熱ないよな?とタクシーの運転手は言った。
私は、ないですと言った。
車は進んだが、気分が悪かった。
タクシーの運転手も道にゴミのように
溢れてる肉の塊どもも全員破壊して、
ぶっ殺したかった。
こんな国は、こんな世界は糞食らえだ。
日本なんか嫌いだ。日本人はもっと嫌いだ。
そもそも人間なんか大嫌いだ。
私はもっと自由に、ラフに、タフに、好きに
生きていいよ、と腹の子が物理的に身体の不調を訴えながら7週と短い期間で教えてくれた。
私は我が子の死を背負いこれからもっと大きく強くなる。きっと。そして幸せになる。
それが今できる最善の償いであり、
愛だと思った。
たった7週間。たった2ヶ月。
妊娠がわかってからたった10日も満たない。
腹の子は私の中で一生懸命生きてくれた。
腹の子を手放すということは、
過去の弱い自分との別れでもあった。
小さくて弱い私の中に身籠ってくれた
我が子に感謝とラブを込めてさようなら。
小さくて弱い自分。
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