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「 トヨタが世界No.1に、なれた理由 」

トヨタは、中国から撤退しないで、かえって中国にドップリ浸かる道を選んでしまったようですよ。アメリカから制裁を喰らわなければ良いですが、大丈夫なんでしょうか?トヨタさん。。。

トヨタの社長も、中国のハニ💋トラ済みらしいですね。

トヨタの創業者が聞いたら何て言うでしょうかね?

トヨタは将来、中国の会社になるのかもしれないね。


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「ついに、完成したな…」
工場の庭先から張られたテントの中央には、ピカピカの黒いボディに身を包んだ自動車があった。
これは、ある小さな日本企業が、世界的な自動車メーカーへ成長していく第一歩となる瞬間でした。

この企業は戦後、焼け野原となった日本を工業大国へと押し上げ、終戦からたった20年で日本を世界第2位の経済大国へ成長させるのに貢献。
現在では、自動車の販売台数で世界No.1、日本の企業の中では、2位のソフトバンクと大差をつけて時価総額No.1の企業。

そう、トヨタ自動車です。

今回は、日本が誇る世界的大企業を作った男:豊田喜一郎の人物像を紐解いて、昭和の経済成長を支えた力の源泉を明らかにしていこうと思います。
これを知ることで、日本人にとっての組織の成功法則を導き出し、活気ある明るい日本を取り戻すには何が必要なのか、そのヒントを得ることができるかもしれません。

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トヨタが世界No.1になれた理由
創業者から学ぶ日本人の生存戦略

「日本の道路を日本で作った自動車でいっぱいにしたい…」

東大の機械工学科を卒業し、自動車に憧れを抱いていた喜一郎は、父が創業した会社の新事業として、自動車分野に挑戦することを決めていました。

今でこそトヨタと言えば自動車のイメージだが、この当時は糸を織物に織り上げる機械のメーカーとして有名でした。

「僕は自動車で日本の役に立つんだ…!」

ワクワクで胸を膨らませていた喜一郎でしたが、周囲からの反対は激しいものでした。
というのも、当時の日本で自動車開発に乗り出すことは、極めてチャレンジングなことでした。
フォードやGMといったアメリカの大企業が日本国内で自動車を販売し始め、その勢いは凄まじく、仮に日本で自動車を作れたとしても売れるかどうかはわからない。

その上、自動車を開発するには、莫大な金額の投資が必要とされており、どんな事業にも手を広げてきた三井、三菱、住友などの巨大財閥も、この業界への参入には尻込みするほど。
自動車産業は、手を出してはいけない“タブー業界”とされていました。
そんな中、田舎にある大した資本も持たない中小企業が自動車開発に乗り出すなど、あまりに無謀な挑戦に思われました…。

社内での反発を強く受けながらも、喜一郎は『自動車部』を立ち上げます。

しかし、設計図もない、工場もない、機械も、技術もない…。
日本国内で自動車事業に成功した会社もない…。
全くのゼロからスタートしたため、何をまず作れば良いのかもわからない状態でした…。

そこで喜一郎は、あることを始めます…。
仕事が終わり夜になると、喜一郎は部下数人を会社の研究室に呼び寄せます。

そこには、GMの自動車が1台置かれてあった。
喜一郎は、口を開いた…。

「こいつを使って、まずは自動車について調べ尽くすんだ」

喜一郎が最初にやり始めたことは、海外メーカーの徹底的な研究でした。
持ち込んだ自動車を分解して、部品の一つ一つを丁寧にスケッチしていく…。
そして、またその部品を組み上げては、また分解する…。
こうして、世界で売れている自動車が、どのような仕組みでできているのかを事細かに調べ上げていきました。

それだけではありません。

喜一郎自身が海外に飛び、アメリカやドイツの自動車工場を見学して回ったことはもちろん、部下たちを海外に派遣し、工場や工作機械の調査もさせました。
ある部下にはフォードの工場に潜入させ、工場に落ちている砂や部品をポケットに入れて持ち帰らせたこともありました。
それほどまでに、徹底して海外メーカーを研究していきました。

喜一郎は常に忙しく、いつも全国を飛び回っているはずなのに、1日1回は工場に顔を出しました。
やがて、家から工場に通う時間も惜しくなり、ついには工場内にベッドを持ち込んで研究に勤しむように…。
24時間、片時も自動車のことが頭から離れなかった。

ここまで喜一郎を突き動かしたのは、
「日本の役に立ちたい」
という思いでした。
喜一郎は自動車の開発をしている時に、こんな発言をしています。

「我が社の今の状況であれば、年間100万円程度の投資なら5年間は耐えられる。その後、会社は潰れるかもしれない。しかし、この5年間で技術を蓄積し、人材を育てれば、必ずやそれを土台に後を継ぐ者が現れ、日本の自動車産業は力強く成長するだろう。トヨタ自動車が潰れても、決して無駄にはならないと信じて、ただひたすらに邁進するんだ」

1935年、喜一郎の努力は実を結び、ついに最初の試作乗用車が完成。
自動車の研究を始めてから、たった1年半後のことでした。
さらにその1年後には、実際に乗用車を販売し、日本の自動車メーカーとして地位を確立していきました。
全てが順調に進んでいるかのように思われました…。

しかし、日本でシェアを伸ばせば伸ばすほど、喜一郎は目の間に立ちはだかる『大きな壁』に気付きます。
フォードとGMに全く歯が立たない…。

この2社は、トヨタよりも約40年も早く最初の自動車を完成させていたこともあり、性能はトヨタ車よりも高く、故障も少ない。

さらに、フォードとGMはアメリカにもマーケットを持っており、大量生産を行うことができました。
そのため、生産コストを安くすることができ、結果的に販売価格も安かった。

トヨタ車は性能が悪く、故障も多い上、フォードやGMよりも高い…。
市場に受け入れられるはずがありませんでした…。

「性能は地道に改善を続けるほかないが、生産コストなら下げられるかもしれない…。しかし、大量生産もできないが、品質を落とすわけにもいかない…。なにかいい策はないか…」

喜一郎は悩みに悩み、ついにあるアイデアを思いつきます。

それは『ジャスト・イン・タイム』と呼ばれるもの。
ジャスト・イン・タイムとは、必要なものを、必要な時に、必要なだけ作るという発想であり、つまり『在庫を持たない』ということ。

これにより、大量生産も品質を落とすこともせずに価格を下げることに成功し、フォードやGMに対抗できる自動車を生産できるようになりました。
もしかしたら、簡単に聞こえるかもしれませんが、実際にこのアイデアを実現させるには、相当な苦労がありました…。

そもそも、必要なものを、必要な時に、必要なだけ作るためには、指示に対して、確実に対応できる体制を整える必要があります。
全体の一部だけでも、指示通りに対応することができなければ、全ての生産工程が崩れてしまう。

1つのミスが全ての遅れを生む…。
もしかしたら、お客さんに予定通り自動車を提供できず、莫大な損害を出してしまうかもしれない…。
『在庫を持たない』ということは、これほどまでのリスクを負うことです。

しかし、トヨタは実際に、このリスクを最小限に抑えつつ、『ジャスト・イン・タイム』を実現させることに成功しました。
その裏には、トヨタ従業員たちの誠実な仕事に対する姿勢と、トヨタを最も特徴づける企業文化:『カイゼン』の努力が隠されていました。

資本も、技術も大手には敵わない…。
そんな状態で世界の競争に飛び込み打ち勝つには、日本人の強みを生かす他ない…。

そう考えた喜一郎は、職人気質の強い日本が伝統的に受け継いできた、『カイゼン』の精神を企業DNAの柱とし、社員全員に徹底的に浸透させていました。
40年以上も遅れて自動車業界に参入したトヨタが、これまで誰もできなかった『ジャスト・イン・タイム』を実現させられた所以は、この『カイゼン』の精神にこそありました。

喜一郎による、『ジャスト・イン・タイム』のアイデアはその後、より明確に体系化され、『トヨタ生産方式』として世に知られ、世界の常識を一変させたのだが、そこから数多くの企業が『トヨタ生産方式』をマネしようと試みるも、全く導入できませんでした。

トヨタの従業員は誇らしげにこう語ります。
「トヨタの手法は、外側だけマネできても、マインドをマネすることはできません。トヨタの社員と同じマインドを持たなければ、同じような結果は出せないのです」

日本人の強みを最大限まで生かしたこの生産方式によって、トヨタはフォードやGMなど世界の覇権企業らを飛び越え、世界一の自動車メーカーへと成長していきました。

「アジアの奇跡」を起こした日本の力の源泉

75年前の8月、広島と長崎の上空に突如として巨大なきのこ雲が出現。

街は焼け野原になり、約14万人の方が亡くなりました。

「戦後復興に50年はかかるだろう」

原爆による攻撃から9日後、敗戦国となった日本はこのように言われていました。

しかし、日本は驚くべき経済成長を遂げ、敗戦から20年の時が経ち、日本の復興が見え始めた頃、欧米の学者たちは、明治維新からわずか40年ほどで近代化を成し遂げ、日清・日露の2つの対戦に勝った日本の発展を『アジアの奇跡』と名付けられ、ハーバード大学のビジネススクールでは、今なお経済戦略の教材にされています。

この力は、戦後の高度成長でも大いに発揮されましたが、その日本の力の源泉について、多くの研究者が関心を寄せ、解明を試みます…。

日本人の研究者たちは、「欧米の近代文明受け入れ」「民主主義思想の成長」など、共通して欧米から輸入した制度や思想にその秘密があると考えました。

しかし、欧米の研究者は日本古来の教育や思想にこそ、奇跡を解明する鍵があると考えました。
その結果、彼らが発見したのが、欧米の制度や思想を運営する日本人の意識の成熟、『和魂洋才』です。
日本古来の伝統や道徳など、優れた精神性を大事にしながら、欧米の制度や思想をただ盲目的に受け入れるのではなく、両者を咀嚼し、自分たちなりに運用・発展させていくこと、その和魂洋才の精神こそが、アジアの奇跡を形作った力の根底にあったのです。

日本を工業大国へと成長させた男:豊田喜一郎も、“和魂洋才”の実践者の1人でした。
喜一郎は最初に自動車を作った時、当時の日本の技術力を鑑みて、徹底的に海外メーカーに学ぶ道を選びました。

最初は海外の模倣品のような自動車を作っていたトヨタでしたが、それだけではフォードやGMに太刀打ちできないと確信…。

日本人の特性が存分に活かされた『ジャスト・イン・タイム』という独自の生産方式を作ることで、世界でも堂々と渡り合える自動車メーカーへと成長させたのです。

海外の良いところを盗みつつ、それを日本独自の知恵や努力によって、更に素晴らしいものへと昇華させていく。
まさに“和魂洋才”によって、喜一郎はトヨタを日本が誇る世界的企業へと導いていったのです。

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実は、年明けから、イタリアの楽器メーカーと一緒に仕事をする話が進んでいた。

一月末のNAMMショーが終わったら、本格的に中身を詰めて、4月ぐらいから本格始動するかな、という感じだった。そのNAMMショーが終わったあたりから、コロナウイルスの騒動が始まり、状況が変わってしまった。

そのメーカーは、中国深圳に生産拠点を持っているのである。確か、イタリアは中国の一帯一路という経済政策に一枚かんでいる国。中国に対する企業進出の優遇を受ける代わりに、とんでもない額の融資を国も企業も受けている。だから、イタリアのメーカーがやたらめったら中国にいるのである。

NAMMに参加したそのメーカーのイタリア人スタッフは、コロナウイルス禍の影響で、中国にもどれなくなり、意図せずしてアメリカ遊覧をするはめになったうえに、事態が鎮静化する見込みが立たず、結局全員イタリアに引きこもることになってしまった。

まったくのお手上げ状態であり、社長は毎日、フェイスブックのストリーズに写真を上げてお茶を濁している。

で、この話何が怖いかっていうと、中国に落とした設備投資を回収できない、ということなのである。つまり、生産拠点を他国に移そうにも、それまで投資した設備を中国に捨ててこない限りできないのである。

先日だか、このニュースを見て私は目を疑った。虚構タイムズのニュースかと思った。

そもそも、コロナウイルス禍が収束しない中、工場を建てようという意味が解らない。そもそも、安全が確保できないところになぜ工場を開こうとするのか。

そして、たしか中国はEV購入に莫大な補助金を出していたのが、今年で終わるという話を聞いた。それだけでも、中国のEV需要は落ち込むとみられるのに、どういう経営判断なのだろう。

そして、一番の肝になるのはここなんだが、もし仮に、中国でEVの生産が軌道に乗ったとする。まず第一の市場は中国だろう。しかし、第二の市場はアメリカなのである。

アメリカはおそらく、そのEVをメイドインチャイナとみなすだろう。当然関税は高くなる。いまやがっぷり四つで中国と冷戦を戦っているアメリカは、トヨタ車に限らず、日本からの輸入車にも同じだけの関税をかけ、さらに、現地生産の車にも、保守的な州ならば法外な税金をかけるだろう。

それが、どれだけ日本国内の関連産業の景気を冷やすか、考えられないのだろうか。中国に協力しているというだけでアメリカが自動車以外の製品にも高関税をかけてくることは容易に想像できる。

アメリカがへそを曲げたら、日本からのすべての輸入品に高関税をかける、農作物を高い値で買わされる、高価な戦闘機を買わされる、そんな風に、ダメな方向にすべてが転がりだすって、想像できないのか?

なんでこう、ダメなほうダメなほうばかりに思い切りがいいのか・・・・。そこまでリスクがあるのに、そこまで中国に工場を建てたがるってのは、なんか意味があるのか。

安部さんはどんなタマを握られているのか。自民党や官僚の中にいるチャイナスクールの連中は、ひょっとすると軒並みハニートラップに引っかかっていて、抜き差しならないところまで来ているのか。

そんな下種のカン繰りを行ってしまう。


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