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日露戦争と20%の勝機。 なぜ日本は勝てたのか?

(上島嘉郎氏推薦の故・中村粲氏の講座の紹介より)

〜〜〜 日露戦争と20%の勝機。なぜ日本は勝てたのか? 〜〜〜

「日本が勝利を得る可能性は20パーセントと考えるのが妥当だろう。」
これは、当時、日露戦争の最中に米国大統領セオドア・ルーズベルトが残した言葉です。

実は、この日露戦争のときの日本とロシアの戦力差は、大東亜戦争開戦時の日米の差よりはるかに大きく…
国力差は面積60倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍…
その上、ロシアが所有する軍隊とバルチック艦隊は世界最強と呼ばれており、日本の敗戦は濃厚でした。

ですが、あなたは不思議に思いませんか?
なぜ日本は大東亜戦争では負けて、それより戦力差があった日露戦争では勝利することができたのでしょうか?

その答えは、、
バルチック艦隊が日本近海に着くのが遅かったからでもありません、、
戦争中にロシア国内で革命が起こってロシアが手を引いたからではありません、、
アメリカが仲裁に入ってくれたからでもありません、、
たしかに、それらも日露戦争の勝因の1つと言われていますが、実はそれらが起きるもっと前に勝因がありました、、、


〜〜〜 第3軍に下された特別な命令」〜〜〜

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1904年 日露戦争が開戦してからしばらく…
各地で戦闘が繰り広げられる中、第3軍に「ある重要な命令」が下されました。
その命令とは、、、「ロシアが占拠している旅順港を速やかに攻略せよ」というものです。

この命令は特別な意味を持ちました。
もしこの命令を失敗するとなると、現在戦っている旅順艦隊に加えて、当時世界最強クラスの艦隊と呼ばれる「バルチック艦隊」がヨーロッパから日本近海にやってきて戦力が倍増したロシア軍たロシア軍を日本は相手にすることになります。

そうやってロシア軍に日本海の制海権を奪われることになれば、陸軍も海軍も物資の補給ができず、あっという間に糧食・弾薬が尽きてしまいます。
ただでさえ雲泥の戦力差がある中、これではまず日本に勝ち目がありません。
つまり、日本の命運が掛かった命令だったというワケです。

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そこで、この第3軍の指揮は、「乃木希典(のぎ まれすけ)」という人物に任されました。

しかし、ロシアにとっても旅順港は重要な拠点でした。
数少ない艦隊の物資・燃料の供給拠点であり、ここを陥落させられると日本に逆転のチャンスを与えてしまうからです。
それをロシアもわかっていたのです。
なので、旅順港には大量の鉄筋コンクリートで固められた多数の陣地と機関銃や電気鉄条網などの最新装備が設置されて、この旅順港はアジア最大規模の要塞と化していました。

そして、この要塞を築き上げたロシア側のクロパトキン極東軍総司令官はこう豪語しました。
「欧米列強がかかってきても3年は破れない」
つまり、欧米列強よりはるかに戦力が劣る日本では絶対に破れない、、、
日本の勝利の条件とも言える旅順港は難攻不落の要塞だったのです。


〜〜〜 3回にわたる日本の総攻撃 〜〜〜

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1904年 8月…ついに第3軍による旅順への総攻撃が開始されます。
しかし、いざ戦いが始まるとクロパトキン極東軍総司令官の言葉がただの虚勢ではなかったことを日本軍は思い知らされます。

日本軍が放つ弾は、厚さ1~2mの分厚い壁に跳ね返され、、
ロシアが持つ最新の機関銃は、1000人…2000人…3000人…と次々に日本の兵士の身体を無残に貫いていきます。
日本の船上は血の海で染まりました。

それでも、闘志を失うことがなかった日本人は、弾がある限り反撃を試みますが、、ロシアの猛攻で日本の軍艦は十分に近づいて攻め込めないために、遠くから砲弾を撃ってもそれがどれくらい正確に敵に当たっているかさえもわかりませんでした、、、そして、合計3回の総攻撃を旅順港に仕掛けましたが、、結果は全て失敗。

日本軍は多数の軍艦…万単位の兵士…大量の弾薬を持って3度にわたる集中砲火をしても、相手に多少のダメージを与えるだけで、、陥落させるには到底至らなかったのです、、この作戦の失敗で乃木司令官は大量の弾薬と15000人を超える兵士を失うことになりました。

そして、ここまでロシアに圧倒的戦力差を見せつけられた日本は成す術もなく敗戦か...と誰もが思っていました。
やり場のない怒りを抱えた国民と軍内部はただ司令官を責めることしかできず、2400通の辞職、切腹を求める手紙が乃木のもとに殺到しました。


〜〜〜 最後の賭け 〜〜〜

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しかし、、乃木はある妙案を思いつきました。
これまでは海の上から攻撃をしていたが、今後は陸から攻めて海抜203mにある敵の陣地を直接乗っ取ろうというのです。
目標地点は、通称”203高地”…
過去に陸から攻めていたこともありましたが、その時は失敗に終わりました、、
これは、あまりに大胆で危険な賭けでした。

近づくのさえ難しい港に上陸して、体1つで敵の陣地を無力化させなければいけません。
ですが、海抜203mにある相手の陣地を乗っ取ることに成功すれば、港に浮かぶ敵の位置も丸見えで、正確に敵に着弾させてまた逆転のチャンスを掴むことが可能になります。
バルチック艦隊到着までのタイムリミットが近づく中…乃木はこの作戦に全てをかけて戦力を傾倒しました。

しかし、203高地をめぐる戦いは想像を絶するものでした…
日本側が突撃につぐ突撃で一角を落としても、ロシア側が熾烈な逆襲で奪い返す、、、
そんなオセロのような戦況にあり、血みどろの死闘が繰り返されました。

ですが、死闘の果てに2万人以上という犠牲を出したものの、乃木の類まれなるリーダーシップと隊員の突撃によって、203高地の奪取に成功、、、
そこから日本は旅順港にプカプカ浮かんでいる艦隊に砲撃し、艦隊を全滅させます。ロシア軍を完膚なきにまでに叩きつぶしました。

「欧米列強でも3年はかかる」とされた旅順要塞を見事約5ヶ月で攻略してみせた偉業のおかげで、日本海軍はバルチック艦隊との戦い一点に集中できました。
そして、有名な日本海海戦で完璧にロシア海軍を打ち沈め、日露戦争は日本の勝利として終結します。


〜〜〜 勝利した日本に対する世界の反応 〜〜〜

この日本の勝利は「有色人種が白色人種に勝利した、人類史上はじめての近代戦争」として世界に震撼を与えました。

大東亜戦争時の日米以上の戦力差、、
欧米列強は相手でも3年は守り通せる旅順要塞、、
世界最強のバルチック艦隊、、

ルーズベルトが20%の勝機しかないと言っていたように、まさか日本が勝つとは誰も思っていなかったからです。そんな世界の期待を裏切った日本に対して、世界はこんな反応をしました...

【元インド首相のネール】
「世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。アジア人は西洋人には、とてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、その日本が勝ったのだ。私は、自分達だって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは日本なのだ。」

【中国革命の父・孫文】
「日本は不平等条約を廃除して独立国となった時、日本に非常に接近している民族、国家は大なる影響を受けたことは受けたが、アジア諸民族をして全体的
にそれ程大なる感動を受けさせることができなかった。
しかしそれより十年を過ぎて日露戦争が起こり、その結果日本がロシアに勝ち、日本人がロシア人に勝った。これは最近数百年間におけるアジア民族のヨーロッパ人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアで影響を及ぼし、アジア全体の諸民族はみな有頂天になり、そして極めて大きな希望を抱くに至った」

「ヨーロッパの文化は進歩し、科学も進歩し工業生産も進歩し、武器もすぐれているし兵力も強大で、わがアジアにはとりえがないと考えた。どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのであります。
きわめて悲観的な思想だったのであります。ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。」

【トルコ皇帝】
「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれの勝利である。
トルコでは道路の名前にトーゴーストリートが登場するほどの熱狂だった。」

【黒人の歴史学者レジナルド・カーニー】
「ただ単にロシアをやっつけたというだけではなく、白人が有色人種を支配するという神話を完全に打ち砕き、『他の呪われた有色人種たち』の秘められた力を引き出すきっかけを作った。
それが日本だった。」

【黒人運動家アーチボルト・グリムケ】
「思い上がったプライドの持ち主たちに対して神が遣わしたしもべ、それが日本人だった」

【アフリカ系アメリカ人の新聞ニューヨーク・エイジ紙】
「日露戦争は、すなわち『遅れた人種』がもはや欧米帝国主義によって邪魔されることのない、新しい時代の幕開けを象徴する出来事だった。つまり、黒人の中の『ヨーロッパによる略奪と搾取』から、アフリカ大陸を取り戻す意識を再び目覚めさせた」

日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を打ち破ろうと考え、盛んに独立運動を起こしました。
すなわち、エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア等が相次いで独立運動を起こし、やがてインド人も独立運動を起こすようになりました。
つまり、日本が露国に勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに至ったのであります…


〜〜〜 東洋の神秘の国がおこした奇跡 〜〜〜

あなたはこの話を聞いてどう思いましたか?
教科書ではただ 「日本とロシアが過去に戦った」くらいしか書かれていないですが、、
有色人種の国としてアジアで唯一近代国家としての道を歩いている日本は、アジアの人々にとっての希望でした。

しかし、インドネシア人をはじめ日本に好意を寄せている多くのアジアの人々は、巨大なバルチック艦隊が海峡を通って行くのを見て、もうこれで日本はおしまいだと涙を流したと伝えられています。
ところが予期せぬ日本大勝利の報告が寄せられると、アジア中が沸き返りました。有色人種が白人に打ち勝ったという感動にアジアは満たされたのです。
しかし、今では、その日露戦争での裏側の出来事について語られることはほぼありません。
なぜか? 理由は簡単です。

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戦後、「二度と強い日本を見たくない」と願った占領軍GHQによって、日本の誇らしい歴史が「抹殺」されたからです。

連合国は先の大戦で多くの死者を出しました。
普通の有色人種はちょっと脅せばすぐにビビって白旗を振ってきたのに、日本だけはそうはいかなかったのです、、

この日本の潜在能力は連合国の想像をはるかに上回るとてつもないものでした。
そこで日本人の底力を恐れたGHQは、その強さの源泉を祖国と祖先への誇りにあると考えました。
そして彼らのそのような「特異なメンタリティ」を後世に残すと、連合国にとって都合が悪い、いつ反撃されるかわからないと考えたのです、、

それから「戦前の屈強な日本人特有の精神」を後世に残さないために、戦前の日本の功績、伝統、教育を全てをなかったことにしたのです。
実際に、戦時中は小学生の教科書でも日露戦争については10~11ページに渡って紹介されていたのに、今はたった数行しか使われていません、、、
しかし、そのたった1行2行の出来事の中には、数々の先人たちによる壮絶な葛藤や苦悩、ドラマが詰まっていて、それが現代の日本社会の基盤をつくり、今の私たちがあります。

ですが、それらの日露戦争の裏側の出来事を知らないと、、
「事実に基づかない商業的なフィクション」や「デタラメをいうメディア」によって作られた日露戦争のイメージがどうしても頭の中で先行してしまいます。

そうなると、ただ開国後の日本は好戦的でロシアに喧嘩を仕掛けた、、日本のトップは仲間の命を使い捨てにしていた、、日本の司令官は無能だった、、などの妄説を無意識に信じてしまい、、結局、何が真実かは知れないまま、今の日本を作ってくれた先人を誇ることは出来ません。

そこで、GHQが消し去った”日本が最も強かった時期である日露戦争の裏側”をより多くの人に知っていただこうと制作を始めたのが、近代史研究家で戦後の歴史を再検討する中心的人物であった中村粲先生の「日露戦争と乃木軍司令官~坂の上の雲ではわからない日本の逆転戦略」です。


この講座では、歴史を日露戦争の時期まで遡り、なぜ日本はロシアと戦うことになったのか?ロシアとの戦況はどうあって、どんな形で収束したのか?
歴史の教科書やTVでは決して知れない日露戦争にまつわる誤解や、後日談も解説してあります。
そして、この講座を制作された故・中村 粲先生は一人でも多くの日本人に歴史の真実を知ってもらいたいという想いから、中学生でも理解できるような平易な言葉と理路整然とした構成で講座を解説されています。
なので、たとえ学生時代に歴史に苦手意識を持っていた方でも、きっと自分の身近な体験に照らして、楽しみながら理解していただけます。

詳しい講座の内容は・・・

日中関係史で読み解く大東亜戦争への道
「日露戦争と乃木軍司令官」
坂の上の雲ではわからない日本の逆転戦略


第1章:義和団事件と日露交渉
〜交渉の水面下で戦争の準備を進めたロシアの思惑

・「満州還付協約の嘘」
  満州の地名をロシア語に変えたソ連の野望

・「ベゾブラーゾフと鴨緑江」
  清国がロシアに撒いた日露戦争の火種

・「満州侵略宣言と対露交渉」
  ロシアが日本に突きつけた3つの要求、そして交渉決裂

・「ロシア皇帝ニコライ2世とジンゴイズム」
  ロシアが対日交渉を何度も引き延ばしにしたワケ

・「ローゼン公使と昭憲皇太后」
  ロシアの公使が明かす日本と韓国の国民性の違い


第2章:日露戦争とバルチック艦隊
〜世界が驚嘆した日本軍の戦略とロシアの最終兵器

・「広瀬武夫とアジア最大の要塞」
  日本軍が真っ先に旅順口を攻めたワケ

・「上村艦隊 VS ウラジオ艦隊」
  物流を断たれた日本の逆襲撃

・「乃木の戦略とステッセルの降伏」
  日本軍が旅順から203高地へと目標を変えた理由

・「対馬海峡とバルチック艦隊」
  旅順、遼陽、奉天が落とされてもロシアが降伏しなかったワケ

・「ポーツマス条約と講和会議」
  日露戦争の終戦、そして日本満州経営の始動


第3章:坂の上の雲の嘘
〜乃木軍司令官は本当に無能だったのか?

・「司馬遼太郎と203高地」
  乃木軍が遼東半島に送り出されたワケ

・「小村寿太郎 VS ウィッテ」
  ポーツマス条約で読み解く満州侵略の予兆

・「ステッセル将軍と乃木司令官」
  面会時の写真が1枚しか残ってない意外な理由

・「日本に送られた8万人のロシア兵」
  捕虜 が"松山、松山!"と収容所を指定するワケ

・「秋瑾と民族独立運動の勃興」
  中国人が語る日本のナショナリズム


『NHKもおそれたNHK批判の筆頭』
元獨協大学名誉教授:中村 粲

『正論』に連載された「NHKウォッチング」は、自虐的で偏った戦争観や歴史観を批判し、大反響を呼んだ。
中村先生は生前、戦後50年の国会謝罪決議に反対し、反対集会を開き、デモを行なった。参加者4千名ほどの規模であったが、これをNHKは報道しなかった。
私設の研究機関「 昭和史研究所」では、「これは本来ならば国家のやる事業だ」と主張しながらも、昭和の当時を知る者が健在の間に貴重な証言をとる活動を活発に行い、日本のために熱心に研究をした。

代表作『 大東亜戦争への道』は、600ページを超える大著で、 1990年の刊行から15年以上経た現在もなお版を重ねており、マクロ的視座からの斬新な歴史観で日本に蔓延る偏向史観を一刀両断にする同書は特に重要な書籍と位置づけられている。 また、歴史論、 政治・ 社会評論を著している渡部昇一は同書を「最も重要な通史」と高く評価している。(大東亜戦争の真相を調べるべく、支那事変(日中戦争)や南京事件の調査目的で中国を旅行するが、翌年、中国政府より入国禁止の処置をとられる)

生前は、慰安婦問題を教科書に載せることになった経緯を激しく非難。流布された戦前・戦後の歴史を再検討する中心的人物であった。
1995年、『東京裁判却下未提出辯護側資料』(東京裁判資料刊行會編、全8巻)を共同編集し刊行、第43回 菊池寛賞を受賞 。

推薦の声

・小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
中村粲氏が昭和五十七年夏に起筆し、八年の歳月を費して平成二年の開戦記念日に刊行した名著『大東亜戦争への道』。この大作の生成過程を見守る位置にあつた私共同憂の士の期待は、一に懸つて本書が戦後知識人の意識一般を広く毒してゐた東京裁判史観の暗翳を一挙に吹き飛ばす爆薬の役を果たしてくれるだらう、との一点にあつた。
この期待は見事に満たされた。何より宜かつたのは、中村氏が英文学専攻の学徒であつたが故に、時代の歴史学の陰濕な柵(しがらみ)から完全に独立した、自由な立場で歴史現象と史料を扱ふ事ができた点である。偏向した史学界の既成の学統に対して如何なる義理立ても不要であつた。そして英文学者として文献の読解力は比類なく精緻であり且つ良心的だつた。刊行以来既に三十年。輓近漸く勢付いてきた歴史修正主義の潮流は今や否応なく中村氏の先蹤に追随する形になつてゐる。

・経済学博士 小山和伸(神奈川大学経済学部教授)
同著は、日・米・英・蘭が大東亜、太平洋域において干戈を交えるに至る歴史的経緯を、明治初期の外交関係にまで遡って分析した大著である。その根本的な原因が、シナ大陸全般における排日・侮日の風潮と、朝鮮半島における華夷秩序思想にあること、およびシナ・朝鮮の前時代的な蒙昧と頑迷にあることが示されている。
福沢諭吉が早くも明治初期に「脱亜入欧論」を唱えた如く、日本が志すアジア諸国の連携による東亜の近代化は、シナ・朝鮮に関する限り、ほとんど絶望的と言うより他なかった。清国滅亡後のシナ大陸は、さらに前時代的な群雄割拠の混乱に陥り、とりわけロシア滅亡後のソビエトと連携する共産勢力の台頭は、我が国にとっての深刻な脅威となった。そこに、容共・親中姿勢を基調とするアメリカが、シナ大陸への利権を絡めて、対日政策を辛辣化させ、日米対決が必然化されてゆくこととなる。
今日なお混迷を深める日・中・韓関係を考えるに当たり、同著が提示する歴史的な国民性と、それがもたらす際限の無い混乱と紛争は、妥当な対応策への極めて重要なヒントを数多く与えてくれているように思われる。


・知識は力なりー歴史の知識こそ力なり

「知識は力なり」と哲学者のフランシス・ベーコンはいいました。現代では様々な知識が本やネットで手に入ります。しかし、どんな知識よりも「自国の歴史の知識」ほど力になる事はないのではないでしょうか。

仕事のやり方など技術的な知識を得れば、その人の能力が上がって給料が上がるかもしれません。しかし、自分の国の歴史を知らなければ、その人間は、確固たる信念や価値観、軸を持てず、漂流してしまうでしょう。どんなに仕事が上手くいったとしても、どんなにカネを稼いだとしてもです。

自分の祖先の歴史を知ることで、自分自身が何者か気づくことができ、確固たるアイデンティティや信念を持つことができます。そして、「自立した人間」になれるでしょう。
アメリカを始めとした連合国は戦後、われわれ日本人の祖国の歴史への誇り、故郷や同胞への愛着、そして私たちの精神的な強さをとても恐れていました。2度と強い日本を見たくないと思い、私たちの思考を破壊し、精神を打ち砕くべく、私たちから「日本人のための歴史」を奪いました。

「祖先の歴史を知ることは、力なり」です。
われわれは今、1人も残さず、過去の先人たちの想像を絶するような努力と献身の上で、生活しています。誰1人例外なく、その恩恵を受けていない人はいません。それを知らぬ存ぜぬでは無責任ですし、何より恥ずかしいではありませんか。
ぜひ、この歴史講座から、あなたの祖先の話、お爺ちゃん、お婆ちゃんたちの本当の話を聞いてください。

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上島嘉郎氏は、日本が日露戦争に勝ったのは、日本人が頑張ったから…と言う解釈なんですね。ロシア革命はユダヤ革命とも言われていますが、ロシア革命の黒幕のような、ユダヤ人のヤコブ・シフに、日本が莫大な借金をした事には触れたくないのかもしれません。よく「陰謀論だ」と揶揄して否定する人がいますよね。本当の所はどだったのかわかりませんが、実際に陰謀を企てている者達がいたとしたら、彼らをかばう事になってしまうような気がします。今の中国共産党など、陰謀・謀略の限りを尽くして世界を我が物にしようとしています。日本人はもっと強かにならないとまたやられちゃいますよ…。大英帝国の腹黒さ・狡猾さは世界一です。

🍉💕🐧💦。。。暑い熱い日本の夏ですね。今日は8月31日。8月31日と言えば、確か、英国のダイアナ妃が交通事故?で亡くなられた日ですよね。テレビとかでダイアナ妃の事何かやっていたのかな? なぜ、この記憶力の悪い🐧💦が、ダイアナ妃の亡くなった日を覚えているかと言うと、🐧の父親の命日も、日付だけダイアナ妃と同じ8月31日だからです。8月31日の命日に父のお墓まいりに行ってきました。

「千の風になって」という歌がひと頃流行ってましたよね。あの歌詞、とても好きです。自分も死んだら、お墓の下にいるつもりは昔からありませんでしたから…。でも、もちろんお墓は大切にしないと。「お墓」って何なんでしょうね?海の事故などで亡くなった方達にとっては、海がお墓なのでしょうか?🐧の祖母の弟は、戦争に徴兵され南方に行って戦死しました。祖母からは「南方」って事だけしか聞いてません。きっと祖母もそれ以上は知らないのかもしれません。何処で亡くなったかもわからないなんて…💧🐧。

せめて、何処で戦死されたのか知りたいです。調べないと・・・。


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