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いざというとき立ち向かう人、 逃げる人

中山恭子先生〜💕🐧    ねずさんのブログよりの転載です。とても長〜いですが、初めて知る事も多く、安倍総理はもちろんの事、特に、中山恭子先生の話には感激しました。あんなにお上品で物腰柔らかなのに…、もう本当にカッコイイのです。中山恭子先生について、チャンネル桜の番組くらいでしか知らなかった自分です。とても素敵な方だなぁ〜と、番組を見る度に思っていました。知るのが遅過すぎましたが、一気にファンになってしまいました 💐💕🐧💦 。。。。。。。。。。。NHKよ!「中山恭子先生」が主人公の 大河ドラマ か 朝ドラ を制作せよ‼️

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・・・表題に書きましたが、人間の値打ちを決めるのは、平素何を言っているかではありません。どんなに苦境に立ち至っても、いざというときに腹を決めて立ち向か人であるのか、逃げてしまうのか。そこが値打ちを決めるのだと思います。

戦時中のことになりますが、日本の兵隊さんたちがなぜ強かったのか。
たとえば満州軍閥の張学良は20万の軍勢を持っていましたが、たった1万の日本の軍隊に完膚なきまでに叩きのめされました。なぜそんなことができたのかといえば、これは戦陣訓の解説にもありますが、国家観と責任感です。
日頃、どんなに能書きを並べ、勇ましい言動があっても、いざというときに決するのは、人々を愛する国家観と、不退転の責任感なのです。

(省略)

中山恭子先生は、誰も行こうとしなかった北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を奪還してこられた政治家です。
またウズベキスタンの大使だった頃には、過激派の武装タリバンに拉致された日本人鉱山技師4名を、やはり単身、敵地に乗り込んで4名全員を無事救出して来られています。
いざというとき、逃げない。だから信頼されています。

そして中山恭子先生がなぜ信頼されるのかといえば、「国家観」を持った政治家だからです。日本が私達の国であり、私達日本人が守り育んでいかなければ、何も解決しないということを、日本人として日本国家を明確に認識して行動されている人だからです。

いまの日本には、多数の政党があります。
テクニカルな党利党略や、目先の政局運営のプロはたくさんいます。
けれど、国家観と責任感(本来はすべての国会議員が持っているべきあたりまえの常識)を持った政治家は、あまりいません。

西村眞悟先生が、一昨年の7月に宮崎で講演されたとき、以下のお話がありました。

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拉致被害者救出運動の中で、内閣参与として中山恭子先生がおられた。
皆さんに申し上げておきますが、今5名の拉致被害者とその家族は日本におりますが、彼らが帰ってきた平成14年10月に於いて、日本国政府は、彼らを一週間で北朝鮮に送り帰すと本気で思っておったんです。
拉致議連の我々も、もっと暴れねばならなかったけれども、外務省の特命拉致担当大使とやらが、北朝鮮と約束したことですから、送り帰さなければなりませんと言っておりました。

その時、政府側でただ一人、細い女性の声で、拉致被害者を北朝鮮には帰さないという方針で私はいきますと言われたのが、中山恭子先生でありました。
そして後で聞きましたら、政府内で孤立無援の中で、国家のために送り帰してはならないという論陣を張られて、安倍晋三内閣副官房長官もそれに同調して行ったというのが真実であります。

つい最近、産経新聞が6人の女性の議員の顔をならべて、もし女性の総理大臣が出るならば、この中から出るであろうという企画をしておりましたが、あの時に顔を並べておったのは、みな政界のチイママクラスです。
アイアンレディーは中山恭子さんだけです。
もし女性の総理大臣がわが国から出るならば、それは国家のために中山恭子先生でなければならないと思います。

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1970年代から1980年代にかけて、日本国内で不自然な形の失踪や行方不明事件が相次ぎました。 その中のひとりが横田めぐみさんです。

昭和52(1977)年11月15日、いつものように家族とともに賑やかな朝食を食べ、元気良く中学校に出かけていった横田めぐみさんは、いつもの下校時刻になっても帰ってきませんでした。
お母さんも、お父さんも、心配で必死でめぐみさんを捜しました。
警察にも行きました。
けれど、ただの家出事件として受付られただけでした。

北朝鮮による拉致の疑いがあるとわかったとき、ご両親は外務省にも掛合いました。  出てきた答えは、拉致問題の解決には北朝鮮との国交回復に10年、交渉に10年、あわせて20年かかるというものでした。
けれど20年経っても、事態は何も進展しないままでした。

一方、拉致されめぐみさんは、拉致当日、40時間もの間、北朝鮮に向かう船の船倉に閉じこめられました。めぐみさんは「お母さん、お母さん」と泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかき、北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって血だらけだったそうです。

事態が動いたのは、平成14(2002)年になってからのことでした。
米国が北朝鮮を疎み非難し、そのため北朝鮮の金正日総書記は日本との関係改善を希望しはじめたのです。日本は、小泉内閣で訪朝を決めました。
目的は「北朝鮮との国交正常化」です。

当時、古川貞二郎官房副長官が記者会見で語った言葉があります。
「拉致問題で何人が帰ってくるこないということではない。そういうことがあればハッピーだが、それよりまず国交正常化に対する扉を開くことに大きな意義がある」

外務省の槙田邦彦アジア局長も次のように述べました。
「拉致されたたった十人のことで日朝国交正常化がとまってもいいのか、拉致にこだわり国交正常化がうまくいかないのは国益に反する」

日朝首脳会談は、その外務省の田中均アジア大洋州局長が人脈を駆使してセットしました。それは日本の総理が北朝鮮を訪問し、国交正常化と引き換えに、大量のカネを北朝鮮に渡すというものでした。
要するに国が北朝鮮に頭を下げて朝貢し、カネを献上するかわりに、商売をさせてもらう窓口を開いてもらおうという交渉です。
拉致被害者の問題は、その交渉に「むしろ邪魔になる」というのが、当時の外務省の考えでした。

小泉総理は、日本を飛び立ちました。
その飛行機に同乗していたのが、当時官房副長官だった安倍晋三氏(現・内閣総理大臣)です。飛行機の中で安倍氏は、はじめて外務省の用意した「日朝平壌宣言」を見せられました。ところがその宣言の中には「拉致」という言葉はひとことも触れられていませんでした。

安倍官房副長官は怒りました。けれど、すでに宣言文は双方の事務レベルでの合意に達しているというのです。このままではいけない。

                                         北朝鮮に乗り込んだ小泉首相
                                   (中央が安倍晋三官房副長官/当時)

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安倍副長官は、小泉総理に平壌で拉致のことを話題にするよう、強く求めました。
小泉総理もこれを理解し、このことを訪問早々に話題にしました。
このとき北朝鮮側から帰ってきた答えが「5人生存8人死亡1人未入国」というものでした。あとでわかることですが、これは北朝鮮の苦し紛れのデタラメでした。
けれど、ともあれ5人は生存していることが「北」の発表となったのです。

同時に「8人死亡!」という報告は日本側に重い沈黙を生みました。
このとき安倍官房副長官は、小泉総理に「厳しく抗議してください!」と進言しました。小泉総理もこれを理解し、午前中の会談で、そのように北朝鮮側に述べました。北はそれを黙殺しました。

「このままではいけない。」
そう思った安倍官房副長官は、このとき一計を講じています。
昼食の休憩のために控え室にはいったとき、安倍副長官は、故意に大声で「拉致したという白状と謝罪がないのなら、調印は考え直した方がいい。今すぐ帰りましょう!」と話し声をあげたのです。

びっくりしたのは、同じ部屋で昼食をとっていた面々でした。
安倍副官房長官が、なにやら食事中にひとりで大声をあげて、いかにも会話をしているように一人で芝居をはじめたのです。周囲にいた日本側メンバーはみんな「安倍さんは気でもふれたのか」と、あっけにとられたそうです。
けれどこれは、安倍副官房長官が、「そこが盗聴されていることを意識して」打った大芝居でした。

案の定、声は、ものの見事に盗聴されていました。
そしてこのことは、北朝鮮にしてみれば実は大問題でした。
日本からの経済援助金がなければ北は政権が崩壊する危機にあったからです。

そもそも北朝鮮国内では、相次ぐ凶作によって多くの国民が餓死しているという状況にありました。そういう状況が許せないからと米国が、北への食料輸出等、一切の国交関係を断つという制裁を加えていたのです。
それは、いつもながらの、わかりやすい米国流の力の外交でした。
食い物が欲しいなら、北の政権は俺たちの言うことを聞け!というのです。

そこで北が講じた手段が、日本との国交正常化をネタにして、日本からカネをもらって危機を脱するという手段でした。
それを日本の首相に「朝貢」させることで実現する。
そうすることで北は、すくなくとも北の国民の前では、金体制のもとに日本さえも「かしづいてきた」と言えるし、カネも食い物も手に入る。
北にとっては一石が二鳥にも三鳥にもなる「絵」だったわけです。

ところが日本が怒って帰ってしまうとどうなるか。
北の金王朝の威信は傷つきます。国民の信頼を失います。
カネも食い物も手に入らない。飢饉は一層深刻になるのです。
そして北は米国の軍門に下らなければならなくなるのです。

こうした背景事情を、十分に頭に入れ、計算しての安倍服官房長官の大芝居だったわけです。この結果、何が起こったか。この日の午後の日朝会談で、金正日総書記が、「拉致の事実を認め、謝罪した」のです。

安倍晋三副長官の、この発言が北の姿勢の変更につながったことは、実際にこのときに盗聴を担当していた脱北した元工作員の張哲賢氏も証言しています。

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この北の謝罪が行われた日朝首脳会談が、平成14(2002)年の9月17日です。
北が拉致を認めたことで、その後の拉致被害者に対する日本への帰還交渉が一気に前進しました。これには日本国内で拉致問題を扱ってきた多くの活動家たちの努力があったことも見逃せません。

なにせこの時点まで、社民党の辻元清美政審会長などは、自身のホームページ上で「(拉致問題は)新しく創作された事件というほかない」とする平成13年11月に書いたレポートが掲載されたままだったのです。
また、原敕晁(ただあき)さんや地村保志さん夫妻、横田めぐみさんを拉致した実行犯である辛光洙(シン・ガンス)の無罪釈放を堂々と要求していたのが、後に首相となる村山富市や菅直人らでした。
要するに彼らは、「北朝鮮は地上の楽園」であり、だから北朝鮮による「拉致などありえないし、拉致だと騒ぐのは日本の右翼による捏造である」と強弁していたのです。

ところが、北朝鮮の金正日自身が、拉致を認め謝罪をしたわけです。
このことは、日本国内における拉致問題に関する関心を一気に高まらせました。
テレビも新聞も、連日、拉致被害者のことを報道しはじめたのです。
そして政府は、北の外交部との間で、具体的な「生存者5名の日本への返還交渉」に入ったのです。

同時に政府としては、拉致被害者への対策を、政府として「しっかりやっている」というポーズをとる必要に見舞われました。
これはひとつには、マスコミ対策という側面があります。
そしてもうひとつには、既存の対応組織である外務省では、これまでの交渉経過からみて、心もとないという判断も加わったかもしれません。

ただし、事は外交に関する事です。
拉致被害者家族担当の内閣官房参与の任命に際しては外務省の意向もくみ上げ、北との会談の9日後の9月26日、ウズベキスタンの特命全権大使を退任したばかりの中山恭子先生が、当該参与に就任されたのです。

外務省の田中均アジア大洋州局長からしてみれば、ウズベキスタンの大使と局長では、局長の方が上です。中山恭子先生は、局長からすれば、はるか下位の部下であり、しかも女性なわけです。
局長の意向を伺いながら、外務省側の立場でうまくやってくれる、もしくは上手に使えるだろうという判断をしたのかもしれません。

ところが内閣官房参与に就任された中山恭子先生の行動は、まさに迅速を極めました。関係各国等に働きかけると、10月早々には地村保志さん富貴恵さんご夫妻、蓮池薫さん、蓮池祐木子さんご夫妻、曽我ひとみさんら5人の拉致被害者を堂々と、単身北朝鮮に乗り込んで、日本に連れ帰ってきてしまったのです。
これが10月15日の出来事です。

                                 拉致被害者らとともにタラップを降りる
                                           中山恭子先生(平成14年)

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このときに、おもしろい話があります。

中山恭子先生は、北に単身乗り込まれたとき、日本から「和菓子」、それも生菓子のおいしそうなお菓子を、重箱に入れ、きれいな風呂敷包みにくるんでご持参されました。
北の空港に到着すると、そこではいわゆるVIPルームのようなところに通される。

通されたはいいけれど、周囲には、いかにも屈強そうな北のガードマン(?)のような猛者たちがぐるりととり囲み、全身からピリピリした警戒感を出しています。
要するに、針一本落ちただけで、銃撃戦がはじまりそうなくらいの、まさに一触即発のような緊張した雰囲気に包まれていたのです。

周囲で男たちが、ピリピリしている。
そんな中で、中山恭子先生は、しずかに持参した和菓子のお重をテーブルの上にあげると、そっと風呂敷包みを開き、中のお重のフタを空けて、
「日本から持参したんですよ。みなさん、どうぞ召し上がって下さい」
とにこやかに、薦められたのだそうです。

北の工作員(警備員?)たちは、中山恭子先生がお重を空ける間、緊張して様子を伺っていました。そしてお重が開き、中から、いかにも美味しそうな和菓子が出てきたとき、目を見合わせました。

満足に食事がとれずに、お腹を空かせているとき、甘いものは美味しいものです。
しかも、日本の和菓子です。見た目も美しいし、おいしい。

次々と和菓子に手が伸びたそうです。
そのときの北の工作員(警備員?)たちの、嬉しそうな顔と言ったら。。。

これには後日談があります。
中山恭子先生が日本に帰国後、北の外交部の人たちが、中山恭子先生の執務室に尋ねてこられたそうです。
そのとき彼らが言った事。
「次回おこしになるときは、和菓子は絶対に持参しないでいただきたい!」
理由は、警備員の心がとろけて仕事にならなくなるからだそうです。

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さて、話を戻します。
ここからが、またすごい話です。

中山恭子先生は、こうして北の警備員たちまですっかり中山恭子先生の虜にして、北から拉致被害者5人を取り返してきたわけですが、このときの北朝鮮の判断は、あくまで「一時的出国」を認めたにすぎません。
日本の外務省の判断も、あくまで「一時帰国」です。
つまり数日後には、また北朝鮮に戻すというものだったのです。

安倍副長官は、外務省の田中均アジア大洋州局長に「5人を返さないでほしい」と言いました。 外務省の田中均アジア大洋州局長の答えは、
「それは困る。わたしと先方との信頼関係はどうなるのか」と反対しました。
そもそも、
「帰すと言う条件で帰国させたのだから、約束は守らなければならない」
帰さないとなれば、田中均アジア大洋州局長の「顔がつぶれる」というわけです。

安倍晋三官房副長官は言いました。
「田中さん、5人の帰国はあなたの信頼関係のおかげかもしれない。けれど外務省が、日本に残ることを希望している5人を勝手に連れ出すわけにはいかないでしょう」 そうなのです。事前に帰国した5人へのヒアリングの結果、5人とも「日本に残りたい」と明言していたのです。

けれど「国と国との約束は守らなければならない」というのが田中均アジア大洋州局長の理屈です。会議はこう着状態となりました。

そしてこのとき、発言したのが、中山恭子先生でした。
「局長、貴方がやっているのは外交ではありません。北朝鮮へのお願いです。外交官ならお願いをやめて外交をやりなさい。」

これを聞いた田中局長は怒りに顔を染めたといいます。
外務省内部では、中山恭子先生が部下です。
そして女性だから、くみしやすいだろうと参与に推薦したのです。
さらに帰国させる側だった福田康夫官房長官も安倍副長官、中山恭子内閣官房参与に怒り、机をたたいて激昂したといいます。

けれど中山恭子先生は明快でした。
「拉致という犯罪によって奪われ、その犯罪者から被害者を取り返してきたのに、これをまた犯罪者に返すというのは、道理が通らないのではありませんか」と、静かに道理りを尽くされたのです。

怒ろうが、怒鳴ろうが、この中山先生の発言には、誰も反論できません。
あたりまえです。泥棒に持ってかれた宝石を、ようやく取り返してきたのに、これを再び泥棒に返すなど前代未聞の珍事です。
まして帰国した被害者自身が、日本に残ることを希望している。
それを返したら、それこそ日本は未来永劫、世界の笑い者です。

ここが官僚や、足して二で割るだけの政治家と、民衆の盾となれる真のリーダーとの格の違いだろうと思います。この中山恭子先生のひとことが、連れ戻した拉致被害者の運命を決定づけたのです。

かくして総理の決断は下されました。
「返さない!」
こうして5人は、晴れて、永久帰国となりました。

拉致被害者の救出は、以上のように安倍晋三現内閣総理大臣と、中山恭子現参議院議員のお二人の活躍がなければ起こりえなかったことです。

そしてこのお二人に共通しているのは、国民を守るという明確な国家観です。
その鋼鉄の意思があるから、見るべきものがちゃんと見える。


実は、中山恭子先生は、この拉致被害者の問題があった事件の前、ウズベキスタンでもやはり拉致被害者を取り返しています。

中山恭子先生がウズベキの特命全権大使として就任されたのは、平成11(1999)年7月のことです。ところがその直後の8月23日に、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人の鉱山技師4人を含む7人がウズベキスタンの反政府武装ゲリラにグループに拉致されたのです。

反政府ゲリラは、拉致した技師たちを隣国のカザフスタンの山中に連れ出しました。つまりウズベキスタンの国境の向こうに被害者を拉致したのです。

中山恭子先生は、至急日本の外務省に連絡をとり、指示を仰ぎました。
すると外務省から帰ってきた答えは、「キルギス政府に交渉を一任せよ」というものでした。

キルギスの国内で作業中に拉致されたのだから、キルギスに一任せよ。
いっけんもっともらしい理屈です。
けれど、犯人グループは、武装し、カザフスタンに逃げ込んでいるのです。
つまり、キルギス共和国の国境の外、外国にいるのです。
キルギス政府は、到底動けるものではありません。

このことはウズベキスタンも同じです。
国境の外に行かれてしまってはどうにもならない。
しかしこのままでは、拉致された鉱山技師らは、全員命を失う危険があります。

そこで中山恭子先生がどうしたかというと、単身で、その武装した反政府ゲリラの本拠に乗り込んだのです。

相手は、機関銃で武装しています。
そこに日本人女性が、ひとりで乗り込んだのです。

そして筋道をたてて武装ゲリラを説得し、なんと拉致された被害者全員を、まるで無傷でカザフから連れて帰って来られたのです。
おそらく、こんなことをやってのけた女性というのは、人類史上はじめてのことではないでしょうか。

ところがこのお話にも、まだすごいオチがついていて、カザフから拉致被害者を連れ帰るときのことなのですが、なんと、拉致した武装ゲリラの人たちが、中山恭子先生以下を厳重に護衛して、ウズベクまで送り届けてくださったのです。
そして彼らは、中山恭子先生との別れを惜しんで涙を流し、笑顔で別れた。

中山恭子先生は、武装してゲリラのところに乗り込んだのではないです。
女の身で、丸腰で、ただ本気で拉致被害者を取り返したいという思いだけで乗り込まれました。そしてなんと、ゲリラたちまでをも、すっかり恭子先生の虜にしてしまったのです。これこそが日本的、人間力の凄味なのではないでしょうか。

先日、「中山恭子先生のすごい質問」という記事で、13日、緊急に参院予算委員会で、中山恭子先生が、質問に立たれたときの様子をご紹介させていただきました。
この日の予算委員会は、復興、エネルギー問題に関する集中審議の場だったのですが、緊急性があるからと、恭子先生は外交問題について、質問をされました。
すかさず自民、公明の代表から議長に向けて、本日の趣旨と違うと形式論のクレームが議長(民主党)にはいったのですが、なんとその議長をはじめ、議場のほぼ全員が、恭子先生の味方になってしまいました。
これがまさに、中山恭子先生の、あるいは本来日本人が持つ、人間力だと思うのです。すごいです。

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中山恭子先生は、東大を出た後、大蔵省に入省されています。
大蔵省では、女性初の地方支分部局長として四国財務局長に就任し約2年間を高松で過ごされています。
まさに女性官僚の草分け的存在なのですが、ひとつ中山恭子先生について、他の女性官僚と大きく異なるのは、赴任したすべてのセクションにおいて、いまだに中山恭子先生のおいでになった時代が、最高の仕事ができた、最高に楽しかった、最高の時代だったと懐かしがられている点です。

人間的魅力、お人柄、そして周囲の誰もが、いつの間にか気がついたときには、内面から善意のかたまりになってしまう。
人間のもつ力というのは、自己を鍛えることでここまですごいものになるのかと、つくづく関心します。

こう書くと、なんだか鉄の女のような感じがするかもしれません。
けれどそうではないのです。
実際にお会いしてみたらわかりますが、実におしとやかで、おっとりとされていて、温和そのものの方なのです。
ところがその温和さの中に、国家観という鋼鉄の芯が一本、ピンと通っている。

冒頭に西村眞悟先生の「アイアンレディーは中山恭子さんだけです」というお話をご紹介させていただきました。
その中山恭子先生は、7月には、参院選を戦われます。

日本が、絶対に失ってはいけない政治家。
それが中山恭子先生です。

そして中山恭子先生は、参議院の任期満了に伴い、この7月には参院選にご出馬なさいます。ところが、中山恭子先生には、いわゆる「組織票」がありません。
自民党やその他の党なら、当該候補者の資質にかかわらず組織の大量票の応援があるけれど、残念ながらできたばかりの維新の会に所属する中山恭子先生には、その「組織票」がないのです。

けれどみなさん。国会議員であれば、まずは何より議席数が大事ということは、ご理解いただけると思います。そしてその議席の「数」を動かすのは、結局のところ「国家観ある人間力」であるということは、これまでの国政を振り返るまでもなく、あまりにも明瞭なことです。

人が政治をつくるのです。
ならば、いかに組織があるかどうかではなく、人そのものが大事なはずです。
そうであれば中山恭子先生のように、まさに非凡な才能と信念をお持ちの方こそ、私達の党首であるのではないでしょうか。

中山恭子先生の夫が、日教組の牙城だった教育三法の大改革を文部大臣として実現した中山成彬先生です。できれば一日も早く、中山成彬先生にも政界に復帰いただき、お二人で日本を取り戻す大仕事を実現していっていただきたいと思います。




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