焚書「バタアン半島総攻撃従軍記」復刻に思う(焚書となった、この従軍記の内容も書かれていている記事です。 このような真実の情報こそ、ドンドン拡散されるべきだと思います。🐧)
焚書「バタアン半島総攻撃従軍記」復刻に思う
理事 袴田忠夫
昨年 11 月末に産経新聞「正論」元編集長・上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパンが焚書『バタア ン半島総攻撃従軍記』を復刻させました。
この本は、1942(昭和 17)年、芥川賞受賞のベストセラー作家である火野葦平が従軍作家とし て現地で自分の目で見たフィリピン戦の真実をありのままに描いたノンフィクション小説です。同 書は戦後、日本を占領したGHQによって「焚書」にされた七千七百冊余りのうちの一冊でもあり ます。
戦後は、昭和23年から25年まで公職追放を受けるなど、厳しく戦争責任を指弾され「戦犯作家」 の汚名を着せられましたが、日本近代文学研究者の都築久義は、「火野の戦争文学には真摯な祖国愛 と素朴な庶民の心情が溢れ、戦後も兵隊精神への愛着を貫いた」と評価しています。
『バタアン半島総攻撃従軍記』は、昭和 17 年3月 144日、マニラから報道班の本部が置かれたサ ンフェルナンドに到着したところから「日誌」のかたちで書き始められます。
火野葦平が報道班員として随行したのは、本間雅晴中将を指揮官とする第 14 軍です。
フィリピン侵攻作戦は、緒戦で航空部隊が制空権を奪取したことにより、昭和 17 年1月2日に第 14 軍司令部はマニラに無血入城しました。順調に見えましたが、マッカーサーははじめからマニラ で戦う意志はなく、全軍をバターン半島に退避させ、その先端にあるマリベレス軍港とコレヒドー ル島要塞などと呼応して抗戦、援軍の到着を待つことにしたのです。
マッカーサーは全軍にバターン半島への退却を命じた後、自身もコレヒドール島要塞に立て籠り ましたが、昭和 17 年3月 11 日に魚雷艇でミンダナオ島に逃れ、その後空路オーストラリアに脱出 しました。バターン半島とコレヒドール島要塞には日本軍の予想を上回る米比軍約八万が戦車と重 火器を備えていました。第 14 軍は1月9日からバターン半島の米比軍を攻撃しますが、圧倒的な火 力に妨げられ戦死傷者が続出、第一次バターン半島攻略作戦は失敗に終わります。第二次攻略作戦 開始は4月3日の神武天皇祭の日であり、火野の「従軍記」は、第二次攻略作戦の展開に沿って書か れ、その人物・情景描写は淡々とした筆致で自然であり、作為的なものではありません。
火野の「従軍記」は、バターン半島攻略を果たし、コレヒドール島要塞の攻撃に入る直前で終わっ ており、「バターン死の行進」の実態はいかなるものなのかは書かれていません。ただ、前提に何が あったかは十分察することができます。また、火野の「従軍記」がなぜ「焚書」にされたのか。それ は、日本軍は残虐で卑劣だったという「戦後の断罪」に合致しない戦場の実相が描かれているから です。
日本郷友連盟が平成 26 年に編集した「国民の物語としての日本の歴史」(日本郷友連盟ホームペ ージに掲載)の中で、「バターン死の行進の真相」について、「日本兵は自分たちの食料も乏しい中で、避難民や捕虜に対してできる限りの事をしており、日本軍としては捕虜を虐待する意図はなか った」旨を述べました。焚書『バタアン半島総攻撃従軍記』は、まさにこれを裏付けるものであり、 今一度、我々が記述したものに加え、「従軍記」の一部を抜粋し、紹介したいと思います。
国民の物語(コラム集 70)..バターン死の行進の真相
防衛省防衛研究所戦史室の『戦史叢書比島攻略作戦』によると、「降伏時バタアン半島の米比軍と 流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリアの流行のため極度に衰弱していたが、コレ ヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によ って傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。しかも、 米比軍の降伏が意外に早かったため、これら捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を 行なう余裕もなかった。
当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状態であった。したがってこれら捕虜も いきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった」。 当時の第 14 軍参謀長の和知鷹二少将(後、中将)は、「死の行進」に関し、次のように述べていま す。
「元来バタアン半島はマラリアのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリアにかかり、 その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。
バタアンの比島軍の捕虜は 5 万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだ のが約 2~3 万は数えられ、合計 8 万に近い捕虜があった。1 月から 4 月まで、かれこれ 3 ヵ月半も、 バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。その彼らを後 方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。
捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒 1 つ の捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。全行程約 60 数キロあまり、それを 4~5 日がかり で歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。南国とはいえ夜にな ると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食 べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。できればトラックで輸送すべき であったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、 すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである(中略)。むろん道中で バタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリア患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれ ば、彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。」
山岡荘八の著書『太平洋戦争』には、比島攻略作戦に従軍した山岡荘八の畏友である記者の報道 記事として、バターンでの投降米兵と現地人避難民および日本兵について、次のような描写があり ます。疲れ果てた三者の姿と、そのなかで見せた日本人兵士の苦労と優しい心遣いが表現されてい ます。
「話をしているうちに敵軍の不思議な性格が明瞭になって来た。彼らは最高指揮官の命令によっ て動くのではなく、中間の団隊長が勝手に投降をするのである。バターン半島の東地区、西地区と いうように、おのおの、ばらばらに投降のために白旗が作られていた。東地区の将校は西地区のことを知らず、西地区の指揮官は東方のことに関与せず、またバターン全島が降伏しても、コレヒド ールはなおも射撃をやめないのである。各所で、まちまちにあらわれた敵軍使との会見が行われた わけであるが、わが軍はなおも追撃前進を続行した。この時から投降兵の群れはいたるところから 我々の前に現れてきた。
米兵が来る。比島兵が来る。どこにこれだけの兵隊がいたのかと思われるほど出て来る。わいて 来るという感じだ。実を云うと私はこの半島の戦線には、こんなに多くの米兵はいないのかと思っ ていた。サマットの前線であまり見かけなかったのでそんな気がしたのかも知れない。米兵はほと んど後方にいたのであろう。私はしまいには不思議な感じがしはじめるとともに、妙に腹立たしい 思いに駆られた。これだけの軍隊がいながら、なぜ戦おうとしないのか。米兵はいずれも背が高く、 頑丈な身体つきをしている。日に焼けて、トマトのような真っ赤な顔になり、たくましい髯面にぎ ょろぎょろした眼を光らせている。 毛むくじゃらの太い腕に、さまざまな刺青をほどこしている 兵隊もある。それらの兵隊が、銃を捨て、だらしなく鉄帽を斜めにかぶり水筒を腰にぶらさげ、ズッ クの背嚢だけを大事そうにかかえて力ない足どりでぞろぞろとでてくるのだ。
日本の兵隊が一人で二百も三百もの米兵をあずかる。中には一人で五百も米兵を引率してゆく。 日本の兵隊は肩までしかない。おまけに軍帽はよごれてぼろぼろになっている。これは漫画ではな いのだ。(―中略―) このときに、我々の心を衝いたのはあわれな難民たちである。戦火に追われた 無数の難民がバターン半島の山中に逃げ込んだ。バターンの戦火がおさまると、これらの難民たち がぞくぞくと出て来て各所に屯した。投降兵と難民とが、とめどもなく陸続とつづいた。難民たち の多くはもはや歩くのがやっとである。歩けなくなって道端に倒れる者も少なくない。老人や女子 供はむざんなほど痩せ細り、声をだすのにも骨が折れるくらいだ。食糧もつき、一週間以上も何も 食べずにいた者も珍しくない。その上多くの者がマラリアやデング熱にかかり、山中で倒れた。赤 ん坊は真っ青な皮膚をむき出して母親に抱かれているが、それは生きているものやら死んでいるも のやらわからない。母親はもとより乳がでないのだ。(―中略―) 日本の兵隊はそういう避難民を 見るとだまっていることができない。自分が今日から食べるものがなくなることも忘れて、持って いる限りの食糧をやってしまう。携帯口糧が少しずつ難民に分配される。煙草をやる。水筒の水を やる。兵隊はすっからかんになる。子供たちの頭を兵隊はなでてやる。こういうときに兵隊の心の 中には、きっと故郷のことが思い出されているのであろう」。
バターン半島で起こったことの実態はこのようなものあり、マラリアにかかった捕虜を、トラッ クにも乗せず 5 日も歩かせれば、倒れて死ぬものが出るのは当然ですが、日本兵の中にも死亡した 者もいたのです。合計 8 万人もの捕虜が、その半数にも満たない日本軍の前に投降してきましたが、 日本兵にも食料は乏しく、かつ輸送手段もありませんでした。そのような中で、一人の日本兵が多 くの捕虜を監視しながら、サンフェルナンドの捕虜収容所まで、徒歩による行軍を余儀なくされた ために起こった悲劇でありますが、日本兵は自分たちの食料も乏しい中で、避難民や捕虜に対して できる限りのことをしており、日本軍としては捕虜を虐待する意図はなかったのです。
火野葦平従軍記4月9日(アモ河畔):米軍の降伏。。。少し行くと、大きなマンゴの木の下に、数百名の米比兵が円陣をなしてしゃがんでいた。マンゴの木に急造の大きな白旗が立てかけてあった。戦い疲れたように、多くの汚れた米兵が、ぐったり と前後不覚になってたおれていたが、担架にのせられた負傷兵もいた。敵は降伏してきたものと思 われる。銃砲声のしないことが、初めて諒解された。私たちは歩度を早めてアモ川をわたった。いち ばん高い峠に出た。塵と汗と装具で胸が締め付けられ、呼吸をするのも苦しかった。その峠で○○ 部隊長と敵軍使との会見が行われていた。報道班長の渡邊少尉もそこにいた。白旗を立てた二台の 自動車が止まり、二十名近くの米軍の将校がかたまって腰を下ろしていた。少し奥まった山の中で 会見は行われていた。
頭のきれいに禿げ上がった長身の米将校は、旅団長アイヴィス大佐であった。腰には水筒と拳銃 の弾丸入れだけをつけ、面長の顔に銀縁の眼鏡をかけ、ちょっと軍人とは思えなかった。態度はど こかのんきらしく見受けられた。田中少尉が通訳をつとめ、会談が進められた。
「貴君はどういう資格で来たのであるか」 「自分は東部地区担当の旅団長であります。隷下の連 隊長二名と砲兵司令官、その他の幕僚をしたがえて来ました。キング司令官は今朝の午前 6 時半に 降伏を声明したのであるが、戦線が混乱状態に陥ったために、命令を徹底させる方法がなかった。 伝達することのできた部隊は、正面の日本軍のところへ、いずれも降伏を申し出ているはずです。 自分は可能な範囲で、隷下部隊の兵力だけはまとめておいて来ました」 「貴官は全面的降伏とい うが、まだ射撃をしているではないか」 「それはコルヒドールが撃つのです。コルヒドールのこと は、われわれは関知しない。また、他地区のこともわれわれとは無関係である」 「貴官はいくつに なる」 「55歳になる。もう年をとり過ぎました」 「煙草をのまないか」 「いや、私はこれが 良い」。アイヴィス大佐はポケットから愛用のマドロス・パイプをだして、口にくわえた。
「自分はシンガポールの落ちたことも、蘭印軍がわずか 10 日足らずで、全面的に降伏したことも 知っている。日本軍は立派だ。少しも疲れるということがない」 そういって、アイヴィス大佐は首 を振ったが、それは自分の部隊のだらしなさを自嘲しているようにも見受けられた。私が藪の中に 居ると、一人の若い比島兵が、アイヴィス大佐以下は降伏を申し込んできたのかと聞いた。私がそ うだと答えると、彼は急に晴れやかな顔になり、いきなり私の手を握ってゆすぶった。自分はこれ らの米兵のために戦場に追い出された。すべてなにもかもおしまいだ、とそう早口でいいながら、 眼に涙をためていた。藪の入り口のところにいる米将校はぞくぞくと続いてやってくる比島兵の捕 虜を見て、いやな顔をしていた。比島兵の方は米将校をじろりと睨む。
火野葦平従軍記4月9日(アモ河畔):難民の状況
その峠をくだって、小さな川の縁に出た。そこから灰のようなぼこぼこの坂道を上がると、五間 幅くらいの大道に出た。バターン半島南端の町マリベレスへ通ずる幹線道路である。
そこは、たいへんな混雑であった。道端の広場に何千とも知れぬ難民が群れていた。彼らは炎天 の下に、立ったり座ったりして、屯していた。男も多く、女や子供もたくさんいた。彼らは思い思い にさまざまの白旗を作って持っていた。白布、ハンカチ、マフラー、衣類の切れ端などで即製の旗を こしらえ、なかには白の猿股を竹棒のさきにくっつけているのもあった。頭に白い布をまきつけて いるのもあった。なんでも、白いものでありさえすればよいというつもりらしい。彼らは一様に見 る影もなく憔悴していた。彼らは各地から、しだいにバターンのなかへ追い込まれて来たものであ ろう。わずかな風呂敷や、袋を後生大事にかかえていた。なかには、石油缶を虎の子のように抱いているのもあった。しかし、ほとんどものいう元気もないらしいのがたくさんいた。袋でこしらえた 急造の担架にぐったりとなって横たわっている老婆もいた。子供たちは皮と骨ばかりのように痩せ、 落ちくぼんだ眼窩に目玉ばかりきょろきょろさせていた。妊娠している女もいた。赤ん坊を抱いた 女も多かった。赤ん坊はまったく萎びてしまって、生きているのか、死んでいるのかもわからなか った。母親にはもとより一滴の乳も出ないのであろう。難民の多くは、水を入れた瓶を大事そうに 抱え、ちびちびとのんでいた。見ていると目の前で死んでいくのもいた。子供たちの鳴き声があち こちで聞こえた。女の子の着るような真っ赤な着物を着た老婆は、若い男から、一口ずつ、缶詰の汁 を口の中にいれてもらっていた。兵隊たちは、自分たちの持っている限りの食料を彼らに分配した。 兵隊たちは、みんなやってしまえば、自分たちがこまるということは、考えていないように見えた。 しかし、実はやろうにも、兵隊たちももう何も持っていないのだ。子供たちが大勢で手を出してく るので、兵隊たちは当惑する。
火野葦平従軍記4月9日(アモ河畔):米兵捕虜の状況
やがて、溢れてくる米兵の捕虜に眼をとめられた。広場にも、難民たちとならんで、数百の米兵が 腰を抱いて並んでいた。森の中から、林の小径から、米兵は列をなして表れてきた。いずれも背は高 いが、疲れた顔つきをし、重い足取りで続いてきた。なかには、髭面の巨大漢や、刺青を入れたのも 交っていた。この辺は野戦病院のあったところらしく、各所に赤十字のマークを書いた立て札がた っていた。米兵の中には赤十字の腕章をしたのもいた。米兵はいつ尽きるとも知れず、湧き出てく るという感じであった。比島兵も中に交っていた。彼らは武器を持たず、いずれも腰に水筒をぶら 下げ、小さいズックのカバンを持っていた。私は捕虜の群れを眺めているうちに、不思議な怒りの ようなものが、胸にわいてくるのを覚えた。実はこんなに米兵がいるということは、少し思いがけ ぬことであった。これだけの米兵がいながら、なぜ戦わないのか。これらの兵隊は、我々の祖国にい われなき侮辱を加え、我々の祖国の存立さえ脅かそうとした傲慢な国の国民なのだ。私は米兵の捕 虜の波を見ているうちに、それは不純な成り立ちによって成立し、民族の矜持を喪失した国の下水 道から流れ出してくる不潔な汚水のような感じを受けた。このような時ほど、日本の兵隊が立派に 見えるときはない。米兵百人に一人か、二百人に一人、日本の兵隊が付き添って引率してゆく。日本 の兵隊は米兵の肩までしかない。顔は陽と塵とに汚れ、軍服も帽子もぼろぼろになり、軍靴も口を 開けて、ぱくぱく鳴っている。その姿は銅像にしたいほど立派である。
そうして、彼らは終始、微笑みを浮かべ、米兵とならんで歩いてゆく。兵隊は、われながらおかし くなったように、米兵のやつ、こんな小そうて汚い兵隊にどうして負けたじゃろかというとるやろ な、と呟く。その闊達さは微笑ましい。
火野葦平従軍記4月 10 日(マリベレス港):米兵捕虜の状況
マリベレスに行くために私たちは先行した。坂上の道路に出ると、昨日と少しも変わらず、台上 は混雑していた。多くの難民がかたまり、トラックが右往左往し、なおも、多くの捕虜があちらこち らから集まっていた。わずかの日本の兵隊が、多くの難民と捕虜の処理にあたっていた。山の中か ら続々と、白旗を立てた難民が降りて来た。日の丸を持っているものもいた。 投降兵の列も続い た。道路は相当高いところについている。くねくねと曲がりながら、しだいに降りになる。一キロごとに標柱が立っている。マリベレスまで十五、六キロらしい。沿道は、部隊と、難民と投降兵とでごった 返している。やがて、海の見える道に来ると、右に曲がる道があった。迷っていると、比島兵がマリ ベレスはまっすぐだと教えてくれた。そこから急な下り坂になって、走っていくと海岸に出た。マ リベレス湾である。岬を曲がると、左手の水平線にコルヒドール島が見えた。そのあたりから、もう マリベレスの町である。町はコンクリートの礎とトタン屋根だけが残り、白亜の教会堂と、ホセ・リ サールの像だけが廃墟の中にポツンと立っていた。なおも、引きも切らず、憔悴した米兵の捕虜が 続いて来た。町の奥からえんえんと一列になって、湧き出るように道を歩いて来た。我々を見ると、 仕方がないというように、ちょっと両肩をすぼめ、両手のひらを見せる米兵もいた。こんなに多く の米兵がいたということは意外である。私はもう米兵の列を見るのが嫌になってきた。マリベレス はもっと大きな町かと思っていたが、もうそこで終わりであった。水平線上に鯨のようにコルヒド ール島が横たわっている。高射砲の音がつづけざまにおこった。島の中央にすさまじい黄煙がまき あがり、水中に島の三倍くらいの高さに水柱が立った。
昼過ぎになって、小隊のトラックがやって来た。もう一台、US ARMYの記号のはいった乗用 車がそのあとから来た。米兵が運転していた。その自動車に乗って、三叉路のところまで引き返し た。付近の小屋には多くの難民が群れていた。三人の米兵がぐったりとなって、トラックにもたれ ていた。負傷兵らしかった。横を重い荷物を担いだ米兵が通りかかった。トラックにもたれていた 若い米兵は、立ち上がりびっこをひきながら荷物を担いだ米兵に近づき、自分たちが食べかけてい た林檎の缶詰をやった。彼は何も言わずに戦友の肩をたたいた。頬がそげていた相手の米兵はがつ がつとその缶詰をうまそうに食べ行ってしまった。道の上に出ると、車両と部隊と馬と投降兵と難 民とが広い道いっぱいをうずめ、まったく動きが取れなかった。病人も中にはいるらしく、ひきつ った顔をしてものが言えず、眼ばかりぎょろぎょろさせる若い男もあった。私は持っていた携帯口 糧をやった。いつ自動車の列が動くかわからないので、歩いて坂を下りた。町の入り口に近い右手 の森に、報道班の通訳壹岐軍曹が宿舎を設営してあった。宿舎といっても、もとより家はなく、大き なマンゴの下である。天幕を敷いて、座敷が作られた。我々の家族に新しい仲間が加わった。自動車 の運転をしていた米兵のサドラー・エフ・エドモンドである。彼は細面であるが、ギリシャの彫刻に あるような顔立ちをしていて、立派な髭を生やしていた。久しぶりでそろった顔ぶれで、晩餐をし た。サドラーは私の右隣に座っていたが、米兵の飯盒にいっぱい入れた飯にわかめ汁をぶっかけ、 いかにもおいしそうに食った。食べ終わると、もっと欲しそうなのを言い出しかねている様子だっ たので、もういっぱい、ついでやった。それも瞬く間に平らげた。あまり食べていなかったものであ ろう。ウィスキーをさすと、四か月ぶりだといった。
火野葦平従軍記4月?日(マリベレス港)..報道班に委ねられた米兵サドラー
マリベレスの町には、まだ、米兵や比兵の捕虜が、あちこちに屯していた。水道のところに、水筒 をぶら下げた捕虜が一列になって水を汲んでいた。米兵と比兵と交っていたが、前の方に比兵がい ても、米兵はおとなしく順番を待っていた。何百人という捕虜を一人で預かって、兵隊は閉口して いた。コレヒドール攻撃の準備が進められ、私たちもリイル河畔の司令部の位置へひきあげること になった。夕方は壹岐軍曹が南国料理をこしらえた。檳榔の幹から葉の出る中間のところに柔らかいところがある。その皮をはいで小さく刻むと筍のようになる。味噌でたくと、筍より柔らかく、お いしかった。気のおけない私たちの仲間に入って、サドラーは安心したように、よく立ち働いた。彼 は私たちに交って、冗談口をたたくようになった。マニラへも連絡車が出ると聞くと、彼は兵隊を 呼び止めた。自分はほかの仲間たちに比べて、幸運であった。この小隊は自分にとって、スイート・ ホームであった。しかし、いずれは自分も捕虜収容所に入らなければならぬ身である。収容所に入 ればがらりと生活が変わってしまうであろう。名残にウィスキーが飲みたいから、マニラでウィス キーを一本買ってきてもらいたい。そういって、サドラーは懐中から 50 ペソを取り出した。自分は 収容所に入ればもう金はいらない。ウィスキーを買った余りは、小隊の方々に寄付するから、何な りと買って食べてもらいたい、と付け加えた。自動車が出発すると、サドラーは独り言のように、私 にとって、戦争以来、昨夜が一番安らかな夜であった、と呟いた。
おわりに
当時は、ルーベルト大統領による「リメンバーパールハーバー(だまし討ちによる卑怯な真珠湾 攻撃を仕掛けて来た日本は許せない)」によって、アメリカ国民の反日感情が煽られていた真っ最中 です。「バターン半島総攻撃後の捕虜の行進」は、そこに、火に油を注ぐように「日本人は残虐な民 族だ」という印象を与え、「日本人を徹底的に殺す」ことを正当化する米国の世論が作られてしまい ました。ルーベルト大統領にとっても「バターン死の行進」は「日本軍の残虐性」を示す格好の宣伝 材料だったのです。
なぜ火野葦平の『バタアン半島総攻撃従軍記』が「焚書」にされたのか。それは、端的に言えば 「日本軍は残虐で卑劣だった」という戦後の断罪に合致しない戦場の実相が描かれているからです。 そこには、正義を掲げ、精強であるべき米軍に相応しくない姿があり、意外にも強くて人間味溢れ る日本軍の姿がありました。日本軍の捕虜となり、報道班に委ねられた米兵サドラーのことを語っ て火野葦平の日誌は終わっています。
米比軍の最高指揮官であったマッカーサーは、ルーベルト大統領命により昭和 17 年3月 11 日に 魚雷艇でミンダナオ島に逃れ、その後空路オーストラリアに脱出しました。
いかに大統領命とはいえ、最高指揮官の敵前逃亡とも言える事態が米比軍の指揮統制を大きく乱 したことは事実です。最高指揮官の敵前逃亡による残された部隊の堕落、これは歴史上の事実でも あります。
フーバー研究所の西鋭夫教授は、アメリカに日本軍の捕虜が少ないということは、日本兵は捕虜 にするなという不文律があり、日本軍が投降しても捕虜にせずに殆ど殺したからだと述べています。 「米軍による日本兵捕虜の扱い」については、「国民の物語としての日本の歴史」においてもコラム 集 76 に、アメリカの飛行家リンドバーグ日記の中で「米兵による日本兵捕虜や傷病兵に対する拷問・ 殺害、死体の凌辱、死体からの金歯の抜き取りなどは日常茶飯事であった」旨を紹介しています。筆 者は、日本兵の中に捕虜虐待が全くなかったというつもりはありませんが、多くの日本兵が国際法 に基づく「捕虜の扱いに関する陸戦法規」を守っていたのです。
なお、『国民の物語としての日本の歴史』の本文 58 頁「バターン死の行進」の中で、コルヒドール 要塞も4月9日占領と記述しましたが、コルヒドール要塞はその後5月6日占領に改めます。
筆者は前回、会誌郷友に米国の極秘資料公開に伴う「真珠湾攻撃の真実と暗号戦」を寄稿しまし たが、今回の日本での「焚書」復刻などを通じ真実の歴史を知り、日本人としての誇りを取り戻す機 会にしてもらいたいと考える次第です。
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