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歴史プロパガンダとの戦い ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・「南京大虐殺」の創作者たち : 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち (伊勢雅臣氏)

ご受講ありがとうございます。「歴史プロパガンダとの戦い」「南京大虐殺」の創作者たちをお送りします。前号では、「南京大虐殺」プロパガンダの嘘を暴く学問的な検証をご紹介しましたが、同じく南京学会会長・東中野修道・亜細亜大学教授の研究で、その嘘がどういう過程で創作されたのかも、明らかにされました。それはある明確な政治的目的のもとに創作され、流布されたものでした。ここが分かれば、「謝れば済む」などという次元の物ではないことは、誰の目にもあきらかでしょう。

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              ( 写真:日本軍占領下の南京にて露店を移動中の中国人親子。)

歴史プロパガンダとの戦い
「南京大虐殺」の創作者たち:中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち

■1.中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち■

 1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズに次のような記事が載った。

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 南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走るものは誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された。[1,p106]
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 日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが12月13日未明。その二日後、15日に南京を脱出したアメリカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した記事である。事件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、誰でもが事実だと信じてしまうだろう。実際に、現在の日本の中学校歴史教科書でも次のように書かれている。

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 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)[日本書籍、平成13年版]
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 しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじめとする、当時の南京にいた欧米人のジャーナリストの一部は、実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが明らかにされたのである。[a]でも紹介した亜細亜大学教授・東中野修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が明かした事実を追ってみよう。


■2.二人のプロ編集者■

 東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝処工作概要 1938年~1941年4月』という資料を見つける。蒋介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前から宣伝戦に総力を挙げていた。そのための機関が「中央宣伝部」であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していたのが「国際宣伝処」である。

 この「国際宣伝処」が、南京陥落前後の3年間に行ってきた工作を記録したのが、この資料なのである。冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象として何度も登場する。

 中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副部長の薫顕光と、国際宣伝処の処長・曽虚白の二人であった。薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留学し、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経験した後、中国に戻って『北京英文日報』などの編集長を長らく務めた。

 薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南京大学教授を経て、上海の『大晩報』の編集長に転じた。

 二人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者であった。欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好の人材であった。


■3.「国際友人」による「われわれの代弁者」■

 薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要だ」と考え、1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強化して、曽虚白を処長とする国際宣伝処を発足させた。

 曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝においては中国人みずから決して前面にでるべきではなく、われわれの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と述べている。

「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であった。特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ多くの人々の目に触れる。上述の資料では「各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、

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 われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。 [1,p45]
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 ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが発表した宣伝文書」をそのまま自分の記事であるかのように発信したりはしないだろう。逆に、国際宣伝処の存在やその工作自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。

 薫顕光と曽虚白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者が、「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重に見極める点にあったのだろう。


■4.「外国人記者を指導した」■

 そのための工作として、国際宣伝処が行ったのは、頻繁な記者会見や、講演会、お茶会を開くことだった。『工作概要』では、その実績をこう記録している。

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 1937年12月1日から38年10月24日まで、漢口で行った記者会見では、軍事面については軍令部より報告し、政治面は政治部が担当し、外交面は外交部(外務省)が発言して、参加者は1回の会見で平均50数人であった。会見は合計3百回開いた。[1,p47]
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 また「1938年度は毎日1回お茶会を開く」とあり、外国人記者たちとの間で、親密な会話が行われた模様だ。

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 通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、国民外交協会、反侵略会、新聞同業者の集会などに参加するよう、毎週平均2回、外事課(JOG注:国際宣伝処の一部門)から外国人記者に通知し、外国人記者を指導した。各集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎回平均35人であった。[1,p47]
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「外国人記者を指導した」という表現に、本音が出ているようだ。こうした工作の効果はどうだったのか。

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 外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が誠心誠意宣伝指導にあたっていることから、そうとうに打ち解けた感情を持っている。そのほとんどはわが国に深い同情を寄せてくれてはいるが、・・・[1,p53]
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 頻繁な接触を通じて、外国人記者たちは中国に「深い同情」を寄せてくれるようになったのである。

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( 写真:南京陥落後7日後、日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京難民区の婦人 )


■5.検閲と洗脳■

 前項の引用文はこう続く。

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 しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録するという気質を持っているので、噂まで取り上げて打電することにもなりかねない。含蓄をこめた表現で、検査者の注意を巧みに逃れることにも長けている。

中国駐在記者が発信した電報を各国の新聞が載せれば、極東情勢に注目している国際人士はそれを重視するものであるから、厳格に綿密に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除または綿密に検査する必要がある。

妥当性に欠けるものは削除または差し止めにしたうえで、その理由を発信者に説明し、確実に了解を得られるようにして、その誤った観点を糺(ただ)した。[1,p53]
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 外国人記者たちが本国に打電する内容で「妥当性に欠ける」ニュースは「削除または差し止め」とされ、「その誤った観点を糺」した。これはもう完全な検閲と洗脳である。その検閲は次のような方法で行われた。

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 あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、検査者が本処(国際宣伝処)の「検査済みパス」のスタンプを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある場合は「○○の字を取り消してパス」のスタンプか、あるいは「全文取り消し」のスタンプを押す。[1,p54]
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 電信局は国民党政府に管理されているので、外国人記者たちは国際宣伝処の検閲を通った記事しか本国に打電できなかったのである。


■6.「竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて」■

 国際宣伝処に「そうとうに打ち解けた感情」を持った記者の一人が上述のダーディンであった。薫顕光は次のように記している。

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 11月19日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者である竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースをもってきた。

 その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離れて漢口へ行くようにという命令を受け、蒋委員長は私と曽虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが、突然、蒋委員長から、竇奠安(ダーディン)に渡して『ニューヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳してほしいという要請があった。[1,p42]
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 ダーディンは薫顕光のオフィスに駆け込んできたり、蒋介石から直接指名を受けるなど、いかにも緊密な連携関係であった事が窺える。

 ダーディンは南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出したのだが、その際に冒頭の記事を書いた。いかにも自らの実体験のような描写であるが、よく読むとこの部分は「殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と、伝聞を書いているに過ぎない。

 実はダーディンのこの記事は、南京大学教授で著名な宣教師だったマイナー・ベイツが書いてダーディンらに送ったレポートを下敷きにしたものである。ベイツは中華民国政府顧問だった。


■7.ベイツのレポートを下敷きにしたダーディンの記事■

 ベイツのレポートと、ダーディンの記事を比べてみよう。

ベイツ: 恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてか ら路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺されたようです。
ダーディン: 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れて から・・・巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも射殺されるおそれがあった。

ベイツ: 市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告・・・
ダーディン: 市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りでも民間人の死体を目にした。

 ダーディンの記事がベイツのレポートを下敷きにしている事は、一目瞭然であろう。そのベイツのレポートも、「即座に殺されたようです」「死体が多数ころがっていたと報告」と伝聞体でしか、記述していない。

 もしベイツやダーディンが実際に市民が虐殺される様を見ていたら、間違いなく自ら見た事実をそのままに伝えていただろう。しかし、実際に陥落後の南京にいたベイツもダーディンも伝聞でしか、書けなかったのである。


■8.「お金を使って頼んで本を書いてもらい」■

 ベイツは中華民国政府の顧問であり、薫顕光とも交友があった。薫顕光の宣伝に協力して、ダーディンらに記事を書かせようと、このレポートを送ったのである。

 ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に出版された『戦争とは何か -中国における日本軍の暴虐』にも掲載された。『工作概要』には、中央宣伝部がこの本を対敵宣伝物として出版したという記述がある。

 この本の編者は、英国『マンチェスター・ガーディアン』紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者であったが、戦後出版された『曽虚白自伝』では、中央宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという証言が記されている。[b]

 この本は、現在でも「南京大虐殺」を主張する人々が典拠としており、70年近くもプロパガンダとしての影響力を発揮している。

■9.ベイツへの二つの勲章■

 東京裁判で「南京大虐殺」が裁かれた時、3人の欧米人が証人として出廷した。ウィルソン医師は「2万人からの男女子供が殴殺された」と述べたが、実際に彼が見たのは病院内の患者だけで、「2万人殴殺」の確証は示せなかった。

 マギー師も日本軍の殺人、強姦、略奪を証言したが、自分自身ではどれだけ見たのか、と反問されると、「ただ僅か一人の事件だけは自分で目撃しました」と述べたに留まった。

 もう一人の証人がベイツであった。ベイツは4万人の不法殺害を証言したが、それはベイツ自身がレポートに書いた内容と同じであった。しかし、彼は自分が中華民国のアドバイサーであったことも、ダーディンらにレポートを送ったことも、そして『戦争とは何か』の分担執筆者であったことも秘密にしていた。

 一方、「南京事件」を世界に告発したダーディンやティンパーリは、東京裁判に出廷しなかった。出廷して反対尋問を受けたら、彼らの記事が何らの事実に基づいていないことが露見してしまう恐れがあったからであろう。

 ベイツは1938年と1946年、「日本との戦争中の人道的奉仕」に対して中華民国政府から勲章を授与された。1938(昭和13)年は、ベイツが分担執筆した『戦争とは何か』が中央宣伝部から出版された年でであった。1946(昭和21)年は、ベイツが東京裁判に出廷して「日本軍4万人不法殺害」を証言した年であった。

 その後、中共政府は被害者数を30万人にまで膨らませて、プロパガンダとして使い続けている。「南京事件」は戦時プロパガンダとしては、史上最高の傑作であった。


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』★★、草思社、H18

以上

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