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軍手の跡と運転手用手袋、脅迫状に付着した証拠たち。狭山事件(七)

「人間は、主体として記録を書き、それを引き継いでいるように見えるが、錯覚だ。実は記録たちが人間たちをシャーレの培地のようにして自己増殖し、変化してきたのだ」
 人類学者ダン・スペル「表象は感染する」

 前述したが、筆者はこの原文を書いたものと、「五月2日」「さのヤ」などの書き加えを行った者は別人だと考えている。脅迫状からはそれとなく遊び心が感じられ、実際に犯行を起こす気はなかったのではないかと感じる。書き直した者は左利きの可能性があり、この左利きらしき男、ぼんやりと色々なところで影が見え隠れしている。

封筒からわかったこと

脅迫状の指紋
 封筒の表側から2個、同裏側から1個、脅迫状の表側から4個、計7個の指紋が検出されている。
 このうち脅迫状の指紋2個は被害者長兄と駐在所警察官のものだった。共に脅迫状の確認のために触れた際に付着したと考えられる。
 他の5個については、印象不足の為対照不能とされている。対照不能だった指紋は封筒を取りに行った末弟のものであった可能性が高い。

手袋痕
 斉藤鑑定では5個の手袋痕が発見された。表側に、軍手様手袋痕が2箇所、裏側に2箇所の合計4箇所認められた。また、表側にドライバー用滑り止め手袋痕が1箇所認められた。

軍手の跡

少時様の存在について
 脅迫状にある「少時様」については、幾人かの候補者が挙げられた。
しょうじ①(昭司)
 所在は入間川で今の狭山市の駅から行けば右に石川宅、左に遺体発見の翌日に自殺したO氏新宅や遺体の発見現場を望み、富士見通りを薬研坂方面へ向った所にある。この家には子供がおらず、子供を誘拐した身代金の対象としては不適格だった。可能性は低いと思われる。
しょうじ②(正治)
 佐野屋から狭山事件の捜査本部が置かれた狭山市役所堀兼支所方向へ行った所にあった。当時、8歳・10歳・12歳・18歳の子供が居たことから、この家も有力な「少時」候補として捜査対象とされており、逮捕後の取調べでも恐喝未遂の候補に挙げられた。
しょうじ③(少時)
 狭山事件発生時に狭山警察署管内の市営住宅に住んでおり、月収は三万円程度、子供が三人、4歳の女児がいた。警察に銃砲保持の登録をしていたから、少時の候補として容易に浮かび上がるものと思われたが、あきらかになったのは二審の本公判で弁護側の調査によってであった。暮らしぶりから見れば営利誘拐の対象とされるほど金持ちとは言えない。脅迫状ではあれだけの凝った当て字を使っていたにも関わらず、この少時はそのままであることを考えるとかなり不自然ではある。

41回公判より「少時」について
検事:それから先ほど少時の件で弁護人の質問がありましたが、これは捜査当時というか、本件事件の発生直後の捜査のことについてだと思うんですが、その後いわゆる少時ということについて調べをしたことはありませんか。
A氏:あります。
検事:それは、いつごろですか。
A氏:昨年の十二月半ばか、末ごろです、それといいますのは、高検のほうですか、高裁のほうですか、わかりませんが、本部の一課を通じて、こういう人がいるからこういう事項について調べてほしいという下命がありまして、調査事項が私の手もとに参りました。それで、そういう人がいるのかと私が一応調査事項に従って調べた事実があります。
検事:あなたは実際に少時方へ行かれたわけですか。
A氏:参りました。
検事:行って家人にも会われたわけですか。
A氏:最初昼間行きましたら奥さんがいました。で、奥さんだけでは調査事項の要領がわかりませんから、再度夜、主人が帰ってくるのを何時ごろ帰ってくるか確かめて、大体六時半ごろから、一時間乃至一時間半本人と会いまして、本人の自宅でいろいろ細かい点をお聞きして報告書を書いた覚えがあります。
(中略)
検事:その場所は、いわゆる狭山事件の死体の発見された場所と、距離からするとどれくらいでしょうか。
A氏:八キロ乃至九キロぐらいだと思います。
その少時さんは、職業はプレス工で会社に勤めており、家族は小さいお子さんが三人位あったと思う。家は市営住宅の一角で六畳と四畳半位と玄関で建坪にすると十坪以下の小さい家で、昭和35、6年に入ったようだった。その家に門は無い。
検事:石川被告を知っているかどうかについては聞きましたか。
A氏:聞いてみました。少時さんは本籍も小谷田でございます。お堂に住んでいるということで、それから、その付近の市営住宅に住んでて、狭山市に在住したこともない。親戚もない。しいて言いますと、奥さんの何か、やっぱり親戚の方が狭山市の入間川稲荷山の下のほうにおるということですが、それ以外に本人の親戚はない。従って、入間川のことは地理的によくわからないしまして、石川一雄さんという人は顔を見せられても、会ったこともないし、全くわからないと言ってました。ただそれについて、私が調べに行きました時に、あなたの家は少時さんだねとたずねて来たのは昨年の十二月の半ばごろ読売新聞の人がたずねてきたそうです。それで、あなたは石川一雄さんを知ってるだろう、善枝さんを知ってるだろう、狭山事件を知ってるだろうと言われて狭山事件というのは、当時テレビやラジオのニュースで知っている、善枝さんの家も石川さんの家も全く知らないと答えたと、それがすぎますと、川越市のHという人が十二月の私が調査に行く一週間ぐらい前にたずねて来たといって私に名刺を見せてくれました。この人がたずねてきて、あなたの家のことは警察の、警察とは言いませんが、鉄砲の名簿で知ってあれしたんだと。石川一雄くんを知ってるか、善枝さんのうちを知ってるか、狭山事件というのはどういうのだということをくどくどと聞かれたと、まあ、それについては、事件のことは、ニュースやテレビで知ったけれどもそれ以外のことは全くわからんと答えて、何か、地方紙、その人の発行したものかどうか知りませんが、狭山事件を扱った新聞をくれてったというふうなことを言っておりました。
検事:今の鉄砲の件ですが、何か登録か何かしておるんですか、警察に。
A氏:鉄砲は、そのとき私が調べた時には以前空気銃の許可と、その次に猟銃の許可を警察の防犯係にとりに行った。それと、亡くなったお祖父さんの古物商の免許の返納にも警察に来たことがある、それ以外には自動車の運転免許の更新時に警察へ届けたくらいで、別に用件がなければ警察という所は、たずねる所じゃない、そういう、いろいろの許可申請、更新手続、そういうことで、警察へは年に一度位ずつ行くけれど、行った日がいつであるかは、手帳も何もつけてないからわからんという話でした。
検事:そういう届をするというんで、逆に警察のほうでは、いわゆる少時というのは、この少時じゃないかということに気づいていなかったのですか、当時。
A氏:まあ、警察官も神様ならわかるんですけれども、そういうことはいく人いるか、どういう名前の人がいるか覚えていませんから予想だにつかず考えてみたこともないと、私は、そういう考えであります。ほかの人はどういう考えか知りません。
検事:あなたの見られた家の状況とは、家族の状況あたりからみて、いわゆる二十万円の恐喝の対象になるような家という感じはどうですか、持ちましたか。
A氏:私の主観ですと、およそ恐喝事件の対象家庭としては不向きな家だと。これは主観でございますが何故かといいますと幼い子供が三人おりますが、三十八年ごろは、学校へも保育園へも行っておりません。それと、当時は田中鉄工へ行っておりまして、市営住宅の入居の条件が月収三万円ということでした。当時三十八年ごろ三万円前後の収入で、二間しかない家に子供三人かかえて懸命に家庭を守っている庶民でございますから、金をもくろんでの犯罪をやる対象としては不向きじゃないかと……。

日付訂正
 1977年の第一次再審請求に際して弁護団から提出された証拠として脅迫状の訂正される前の日付は「29日」であった事が明かにされた。筆跡鑑定の為、脅迫状を赤外線フィルムで撮影した結果、偶然発見されたものである。

脅迫状封筒の謎
 脅迫状封筒の左端に書かれた「20日」もしくは「28日」と読める小文字がある。筆者には28日に見える。身代金の受け渡しが29日の予定なら28日と書くほうが自然な気はするが。

本文からわかったこと

脅迫状の訂正箇所
 封筒の「少時」と「中田江さく」の宛名は細字ペンポイントの万年筆様筆記具で書かれている。「中田江さく」は事件当日の雨では滲んでいない。また、少時の背後に訂正液で消された文字の筆圧痕多数が存在する。脅迫文本文の「五月2日」と「さのヤ」は中字ペンポイントを有する二爪筆記具で書かれている。脅迫状の執筆は少なくとも1本のボールペンと2本の万年筆又はそれに類する筆記具、及び訂正液を用いたとされる。

訂正部分
「日」に特徴がある

 表側の「少」及び「時」の背景には、ペン等用インク消しによる抹消文字が残存し、同文字群は、ペン等によって記載されていたものと認められる。脅迫状作成時にインク消しも使用したとすると、脅迫状の作成者は、万年筆やペンなどに加えてインク消しも所有する者で、これらの筆記具を常備或いは用意出来る環境にいた者と考えられる。文筆家か、書類を扱う経理などの仕事が考えられるが、本文に大学ノートを使っており筆者は「学生」または「最近まで学生だったもの」と考えている。
 二審42回公判で裁判所が命じ、昭和大学医学部の秋谷七郎教授が脅迫状と封筒の筆記用具について鑑定した結果は、脅迫状はボールペンで書かれ、訂正箇所はペン若しくは万年筆を使用、訂正箇所「五月2日」「さのヤ」は万年筆を使用した可能性が大きい。
 訂正部分以外の脅迫状の文字と押収ボールペンの色素はよく一致する。ボールペンのインクはアルコールに溶解するが水には溶解しない、万年筆のインクはその逆である。インクそのものについては、吸収スペクトル及び薄層クロマトグラフィーを用いた色素検査を行なったとされる。

急にカクカクの文字になる「中田江さく」

二条線痕
 これらの筆圧痕は脅迫状の「少時」の背後に認められた。(二条線痕=ペン先が二つに分かれた筆記具の痕跡)柳田鑑定によるとその筆圧痕が「女」「死」などと見られる事を明かにした。脅迫状封筒の文字のうち、ボールペンで書かれたものが「様」だけである。

筆圧痕

脅迫状で使われた漢字について
 文部省による学年別漢字配当表(1958年)によれば小学校6年間で881字程度を学習するとされている。小学校1年程度、子・月・日・金・二・十・女・人・一。小学校2年程度、知・夜・時・円・門・友・車・出・分・名・気・西・池・少。小学校3年程度、万・死・園。小学校5年程度、武。小学校6年程度、供。その他、命・刑・札・江。少なくともこの脅迫状を書くためには小学校卒業程度の学力は必要とされる。

訂正の文字と原文の比較

特に多く使われている「の」と「ヤ」

 筆跡鑑定のことなど全くわからないが、素人目で見た限りでも単純に筆跡は違うように見える。原文はサラサラと伸びやかに書かれているのに、訂正箇所は力んでゆっくりと書かれていることは素人目から見ても歴然だ。筆記具も違うし、つけていた手袋も違うことから、同じ日に書かれた文章でないことは明らかだ。

 原文を書いた人間は一応この脅迫状が実際に使われる前提で手袋を装着して書いている。脅迫状の封筒の表は落書きかのように色々と試し書きしたが、その後ターゲットが「少時」様に決まったため訂正液で消して書き直した。
 この脅迫状を書いた人間もしくは実行犯は原文を3つ折りにし、ポケットに入れて持ち歩いている。2日以上経ったあとにいよいよ使う機会があったため書き直した。慌てて書き直したのでインクが乾かないうちに折り曲げてしまい、跡がついた。
 雨によるインクの滲みはないため、屋外では書き直しておらず、どこか屋根のある雨を凌ぐことの出来るところで書き直しを行なっている。明かりがないところでは書き直しはとてもできないし、屋根があると言ってもその辺の掘建て小屋ではないだろう。
 封筒の切れ端は被害者宅に落ちていたことから、おそらく学生証を入れるために破いたと考えられる。元々本文と封筒は封がされておらず、セロハンテープでくっつけられていたと考えられる。書き直して封をした後に学生証を入れるのを忘れた可能性が高い。
 原文を書いた者は学生で右利き、訂正文を書いたのは左利きだと考えている。さらに、原文を書いた人間は小学校卒業程度の学歴がある。大学ノート、封筒、万年筆、修正液などの筆記用具を一通り準備できる者である。
 書き直しはかなり短時間で行わないといけなかったため、ベタベタと軍手の後が付着したのではないかと考える。

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