年輪
何年か前、何かのワークショップで「人生で最も大切なものは何か?」というテーマについて、あらかじめ並べられたキーワードから各々選んでその理由を述べるという場があり、そのとき私が選んだことばは「財産」だった。このことばはおそらく金銭的な価値の文脈で使われることを想定して用意されたものだろうと思うが、そうではなくて、生きている中で起こったできごとや考えたこと、それらの積み重ねこそが「財産」と呼ぶに相応しいと思ったのだ。最近になって知ったことだが、私は幼稚園くらいのとき親に対して「ぜんぶ思い出になるんだから大事なんだ」というようなことを主張したことがあったらしい。なぜそんなことを言ったのか自分では全く覚えてはいないのだが、そんなわけで、私は小さい頃から一貫して、人生とは思い出の積み重ねであり、それが豊かであることに価値を置く人間のようだ。
この考え方に基づくと、人生が長く続くにしたがって、そのぶんだけ豊かな人間になっていかなければならない、ということになる。すなわち死ぬときが最も豊かな状態でなくてはいけない。そして人間的豊かさを財産と呼ぶ以上は、死んだら全てが雲散霧消してしまうのではなくて、その一部を何らかの形で周囲に対して贈与できることが望ましい。もしかするとこれは傲慢な考え方なのかもしれないが、ゆえに自分が生きてきた中で経験したことやそのとき感じたことを誰かに伝えたり、それらの積み重ねとして存在する私という人間に接することで誰かにポジティブな影響を与えたいと、そんな欲深いことを考えてしまう。
そうは言っても、自分自身が豊かになり、他人にも影響を及ぼすなんて、とても難しいことのように思える。何を経験すればいいか、何を考えたらいいのか、そこから何を生み出したら人の心に触れられるのか?だけどそれってそもそも敢えて意識してやったらダサいのではないか?あるいは、それって実はそんなに難しいことではなくて、自分自身も周りの人々のおかげで豊かな人生を送れていることは間違いないのだから、同じように誰かによい影響をもたらすことは可能なのではないか?だとすれば、誰かに何かしなくてはなんて考えるのは必要のないことで、とりあえず私は自分自身が豊かになるための研鑽を重ねるしかないのかもしれない。
世の中には選び取ることができる楽しいこともあれば、否応なく降りかかる悲しいことや憤りを感じることもたくさん溢れている。よいことだけでなく、悲しい気持ちや怒りの気持ちと正しく向き合うことで、そのぶんだけ人間的な豊かさは増していくはずだ。樹木が年輪を刻んでいくように歳を重ね、倒れたあとには誰かが休めるような大きな切り株を残せるようになりたい。
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