桃源郷について

 こんなクソまみれの世の中を離れて、価値観を共有できる仲間たちとどこかに小さな村を作って暮らしたいと思うことがある。みんなで田畑を耕して、あとは各々得意なことをやって稼いだらいい。自分と同程度に自律的で他者に対する想像力がある人々だけの社会であれば、不必要に傷つくことなく、皆が互いの精神を慰めながら暮らせるのではないか?
 このような発想は空想の中でだけ成立し得る桃源郷であることは言うまでもないが、もしある日突然、桃源郷の開拓者になる使命を天から授かったとしたら、一体そこに誰を勧誘すればよいのだろうか?親しい友人でも、そんなに顔は合わせなくとも人間的に好きだと思う人でも、ぼんやりとは思いくつけれども、果たしてそのような人々で構成された村は思い描いたとおりの桃源郷になるのだろうか?
 だが、もしも想像できるような桃源郷を作ることに成功したとしても、この桃源郷は包摂ではなく排除の論理によって成立した、自己矛盾を孕んだ共同体であるということは指摘しておかなければならないだろう。もし、私が常々ちょっと苦手だと思っている人が誰かから桃源郷の話を聞きつけ、そこに参加することを望んだとしたら、私はその人を受け入れるのだろうか?きっとそうではないだろう。拒絶は蜘蛛の糸を自分の足元で切り落としてしまうことと同義だ。開拓者である私は、自分の意志によって仲間を選び、その過程において自分とは価値観を異にする人々を明確に排除する。これを一度でもやった時点で、私は社会の分断に加担し、クソまみれの世の中をさらにクソにする側の人間になってしまうことは疑いようもない。この批判を受け入れた上で、それでも桃源郷でぬくぬくと暮らすことは可能なのだろうか?
 おいおい、勘弁してくれよ。私はただ誰かを傷つけたり、傷けられたりすることがない社会で暮らしたいだけなんだ。自分がよりにもよって社会の分断に加担するなんて、そんな批判にはきっと耐えられないぜ。じゃあ一体どうしたらいいんだ?え?クソまみれの世の中をバキュームカーで掃除すればいいって?馬鹿言っちゃあいけないぜ。
 結局のところ、我々にはクソまみれの世の中で生きていくしか道がない。これはもうどうしようもなく逃れようもない現実だ。だから話はこれでおしまい。だけどこんな世の中だって皆で互いの心を慰めることが全くできないわけじゃないはずだ。たとえば私はTwitterはそのためにあるのだと思っている。Twitterの中には目を覆いたくなるようなこともたくさん蔓延っているけれど、それよりは見ていて心が落ち着くことの方が多い。Twitterがあれば桃源郷はなくてもこれからもなんとかやっていけるかもしれない。みんな毎日ありがとう、ℓσνє。桃を配って歩きたい。

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