九 理由

楓が泣き出してからのあとは、大変だったと言わざるを得ない。

 まず、何事かと思った周りの大人たちが集まってきた。

 大人たちの手を借りて楓をレストハウスまで連れていくことは出来たのだが、そこからが大変だった。楓がどうしていきなり泣き出したのかを大人たちに質問され、それがわからないから答えあぐねていると、そのうち自分たちはどうしてここにいるのか尋ねられた。どう考えても、金曜日に高校生二人がこんなところにいるのはおかしい。それにも答えあぐねていると、今度は楓と自分の関係を尋ねられる。友人ですと答えると、どこで知り合ったのか、どこから来たのか、宿泊先はどこかなど次々に質問が投げかけられた。

 そんな質問攻めにあっているうちに、隣に座っている楓が泣きやんだ。それを見て追及の手が病んだ一瞬のすきを突いて翔太と楓はレストハウスを出た。そのまま逃げるようにリフトに乗り、民宿への帰途に就いたのである。

 結局、民宿へと帰る間奏では泣いた理由を言わなかった。

 午後七時半時。翔太は民宿の自室で、窓を開け、ふろ上がりの身体を冷やしていた。

 夕食は民宿の近くにあったコンビニで買ってきた弁当で済ませた。おかみさんが風呂の用意が出来たといいに来たのはそんな時だった。

 民宿の風呂は一つしかなく、交代で入ってもらうことになることを許してほしいというおかみさんに、大丈夫ですと言って楓とどちらが先に入るか相談した。お湯を汚しても悪いと思い楓に先に入るよう勧めたが、楓は首を横に振り翔太に先に入るよう促した。どうしても自分の意見を曲げないようだったため、結局翔太が先に風呂に入ることになった。

 楓は帰ってきてから、いつも通りの無表情に戻っていた。正確にいえば、いつもの無表情よりもどこかつきものが取れたように晴れ晴れした雰囲気が漂っている。あの高原に行って、泣いた後楓の中で何かが変わったのかもしれないが、翔太は楓にそのことを聞けないでいた。なぜだか、そのことについては触れてはいけないような気がした。

 とにかく、今日を無事に終えることができてよかった。

 そんなことを考えながら窓の外の夜空を眺めていると、部屋の扉がノックされる音が聞こえた。おかみさんに頼んで楓とは部屋を別々にしてもらったため、一瞬楓とも思ったが、楓は今風呂に入っているはずである。ならばおかみさんだろうかと適当に考え、どうぞ、と答えると、案の定おかみさんがお盆を持って扉を開けた。

「失礼します。お風呂上りに冷えた麦茶でもいかがでしょうか」

 お盆にはガラスのコップが二つと、麦茶が入っているであろうポットが乗っていた。

「ありがとうございます。でも、いいんですか?」

 民宿には基本的に、こういったサービスはないはずだ。そう考えての翔太の言葉に、おかみさんはふふふ、と笑う。

「これはサービスのようなものです。さきほど隣の御嬢さんにも同じサービスをしてまいりました」

 そう言っておかみさんはお盆を手に部屋の中に入ってくる。翔太の隣にお盆をおくと、コップを一つ手にとってそこにポットの中身を注いだ。

「ただ、もしお客様がよろしいとおっしゃるのなら…」

 麦茶を注ぎながらおかみさんが言う。翔太はなんだろうかとおかみさんのほうを見た。

「少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか? この年にこの民宿に一人だと何分人恋しくなるもので」

 おかみさんは乾いた笑い声を上げる。その笑顔には、あきらめと、寂しさが入り混じっているように見えた。翔太は差し出された麦茶を受け取りながら、笑顔でうなずく。

「僕でよければ。でも、僕そんなにおしゃべりは得意じゃないんで、楽しんでいただけるかどうかわからないんですけど」

「いえいえ、お話してくださるだけで結構ですよ」

 笑顔で言いながら、おかみさんはお盆に乗っていたもう一つのコップにも麦茶を注ぐ。そこでお盆にコップが二つのっていた理由を翔太は理解した。

「でも、いきなりおしゃべりしようとしても、何を話せばいいのかちょっと困ってしまうんですが」

 翔太は麦茶を一口飲みながら言う。冷えた麦茶は、火照った身体の隅々に心地よく沁みるようだった。

「では、お客様がお連れ様と二人でここに来た理由などお聞かせいただけないでしょうか。もちろん、お話ししたく何のであれば無理にとは言いませんが」

「いえ、そういうことでしたら構わないですよ」

 そう言って翔太は自分たちがここに来た経緯を順番に語った。

 昼休憩、屋上で楓と出会ったこと。それから毎日楓と一緒に屋上でご飯を食べるようになったこと。楓が山に行きたがっていたこと。楓の希望をかなえてあげたいためにここに来たこと。

 おかみさんは話の合間合間に相槌を打ちながら、翔太の話を聞いていた。やがて昼にここの民宿に到着したところで、翔太は説明を終えた。

「なるほど。それでこの民宿をご利用くださいましたか。まことに、ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ、止めていただいてありがとうございます」

 少し照れながら翔太は頭を下げ、もう一口麦茶をすする。心地よい感覚が身体に行きわたる。しかし、そんな気持ちのよい気分はおかみさんが言った次の一言で一気に吹っ飛んだ。

「しかし、失礼なのですが、お客様は一つ嘘を付いていらっしゃるような気がするのですが」

 ビク、と翔太の身体が震えた。手の中のコップの麦茶が危うげにゆれる。

「うそをついてる? 僕がですか?」

「はい。この年になると、人の嘘などが何となくですが見抜けるようになるのです。まあ、勘のようなものなので本当かどうかはわからないのですが、ただ、この感覚もあながち間違っていないことが多いものですから」

 おかみさんは少し申し訳なさそうに、それでもまっすぐ翔太の目を見てそう言った。その視線に、翔太は言いようのない緊張感を覚える。なぜか鼓動が速くなっていくのを感じた。

「えっと、僕、嘘なんてついてないんですけど」

 しかしその言葉とは裏腹に、翔太の心臓はどんどん加速していく。コップを持つ手は小刻みに震えている。そしてなにより、頭の隅のほうがなんだか痛い気がする。まるで今まで抑え込んできたものが頭の中から必死に飛び出しそうになっている、そんな感覚。

「うそ、というよりも、何かを隠してる感じでしょうか。本当のことをすべて言っていないような、そんな感じです。もしおわかりでないのであれば、お客様が気づかぬうちに嘘をついてらっしゃるのかもしれません。もちろん私の勘違いということもあるかもしれないのですが」

 頭の痛みがひどくなる。胸が苦しくなってくる。おかみさんの視線が、まっすぐ自分を貫いている。

「もしわからないのであれば、私が違和感を感じた箇所を教えて差し上げるのですが」

 子供に語りかけるように、おかみさんは言う。翔太は何も言えず、その視線に吸い込まれそうになる。おかみさんは翔太が何も言わないようなので、再び口を開いた。

「お客様は、お連れ様とここに来られた根本的な理由において、嘘をついていらっしゃるのではないかと思うのですが」

 その言葉が、決定打だった。

 翔太の頭の中で、つい昨日のことがフラッシュバックする。

 

部活動の入部テスト。

学校で、居場所がなくなったと思っていた自分が、見つけた居場所。大らかで仕切り屋の杏奈。明るく元気な麻紀。気さくに話しかけてくれて、もっとも仲良くなれるだろうと思っていた良平。

そのすべてが、一瞬にして手からこぼれおちた。やっと手に入れた、そう思っていたものが、この手から離れて行ってしまった。手を伸ばしても、届かなくなってしまった。

自分にはもう、学校での居場所がなくなってしまった。

どこかに自分の居場所はないか。自分を拒絶しない、見放さない、そんな居場所。

そうして翔太の足は、その居場所へと無意識に向いていた。

夕方の、屋上。

そこには楓がひとりいた。毎日、お昼に弁当を食べに行っても自分を拒絶しない、見放さない、一緒にいてくれる学校で唯一の人物。たった一つの自分の居場所。

その居場所を、もう手放したくない。なくしたくない。だから翔太は逃げた。その居場所が他の誰にも奪われないように、その居場所を持って逃げた。

楓の気持ちを利用して。山に行きたいという楓の希望をかなえるという偽善も甚だしい建前を使って。

気付くと、翔太の目から涙があふれていた。畳に落ちる涙は、ぬぐっても拭っても泊らない。ひっく、と息がひきつる。それは止める暇もなく嗚咽に変わり、翔太は床に突っ伏して声を上げて泣いた。自分が嫌で。楓に申し訳なくて。

「僕は、居場所が、ほしくて…」

 思わず口から声が漏れる。気持ちが涙だけでは足りず、口からも溢れ出す。

「手に入ったと思ったのに、なくなって…」

 女将さんは何を言っているのかわからないだろう。それでも、言葉は止めることができない。おそらく、女将さんもそれをわかっているのだろう。何も言わず、ただ黙って翔太の言葉を聞いている。

「だから、自分のためだけに、楓を…利用して」

 涙が一段とあふれる。胸が張り裂けそうになる。自分のことがこれほど憎いと思ったのは初めてだった。自分という存在を消してしまいたい。この見にくい心を葬りたい。

「僕は、醜い人間です」

「…そうかもしれませんね」

 女将さんがささやくように呟く。翔太の胸の痛みが一層強くなる。しかし、胸を締め付けていた自己嫌悪は次に投げかけられた言葉でかき消された。

「それでも、お客様がいなくなっても誰も許しませんし、解決にもなりません。大事なことは、その過ちを償うことと、次に何をなすか考えることではないでしょうか」

 ぴたり、と翔太の涙が止まった。それまで止まりそうもなかった涙がなぜだかそこで止まり、翔太は女将さんの顔を思わず見つめる。女将さんは窓の外を見つめたまま、独り言のように呟いた。

「人生とは、そういうものの繰り返しだと思いますよ」

 そう言って、女将さんはコップを持ったまま立ち上がる。気づくと、廊下のほうから足音が聞こえてきた。楓が、この部屋に向かってきているようだった。

「あとは、お客様がどうするかお考えください」

 振り返らずにそういった女将さんの背中は、とても優しく見えた。

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