子守稲荷

 むかし、子守稲荷と呼ばれる、お稲荷様があった。

 とある村の外れ、人気のない山の中、真っ赤な鳥居が何十と連なるその先に、ひっそりと立つお稲荷さま。

 そこに子供を連れて行けば、親の代わりに子供を育ててくれるという。早い話が、知る人ぞ知る子供を捨てる場所だった。

 ただし、子供を捨てた親は二度とそのお稲荷さまの鳥居をくぐってはならない。くぐったが最後、この世界には戻ってこれないとされた。

 そんな子守稲荷に、六兵衛は女房と二歳になる息子の三人でやってきた。もちろん、そこが子守稲荷だと知り、何をする場所なのかも知った上である。

 凶作続きで米が取れず、なけなしの収穫物は役人がほとんど奪い取っていった。雀の涙ほどしか残らない作物では、女房と子供の二人を育てていくことなど到底不可能だった。

 覚悟を決めなければならない。この先、息子がさらに食べるようになれば家族三人飢え死にである。食い扶持を減らす以外、自分たちが生き残る道はなかった。

 家族三人、手をつないで歩いた。最近歩き始めた息子は、父親と母親の二人に挟まれるような形で歩いている。聞き分けのいい、大人しい息子で、今からどんな運命が待っているとも知らず、大人の歩調に合わせて必死に足を動かしていた。女房はここまで来るまでずっと無言で、黙々と進む。その手は我が子の感触を記憶に刻もうとしているかのようで、息子の右手をしっかりと握っていた。

 やがて境内にたどりついた。古びた社があり、そこに息子を連れて行く。社の前には狛犬の代わりに二匹のお狐様が台座の上に並び、静かにこちらを見下ろしていた。その静かで無表情な眼差しになぜか肌寒さを覚えながら、六兵衛は社の前に息子をたたせると、そっと手を離した。

「喜介、父ちゃんと母ちゃん、今から少し用事があるけえ、ここでちょっとばか待っとり」

 無言で息子がこちらを見上げる。そのまん丸な瞳がこちらを見つめる。その無垢で無表情な視線は、何を考えているのかわからなかったが、やがてこっくりと頷いた。

 女房が感極まったように我が子を抱く。いきなり抱きしめられ、息子は戸惑っているようだった。小さな声で「かーたん」と呼びかける。舌っ足らずで、ようやく母親を呼べるようになったのはここ最近のこと。女房は思わず涙ぐむ。その様子を、六兵衛は黙って見守っていた。

 やがて決心したように、女房がゆっくりと息子を解放する。「しばらく待っとれよ」と頭を撫でてから、ゆっくりと立ち上がった。六兵衛と目を合わせないまま、うつむき加減に無言で頷く。それを見てとって、六兵衛も頷いた。息子に背を向け、ゆっくりと出口の鳥居へと歩き出す。

 境内を出る前、六兵衛は一度だけ社を振り返った。二匹のお狐様に挟まれた場所で、息子が去っていくこちらを見つめていた。

 すまんの、喜介。心の中でそう詫びて、六兵衛は長い鳥居の道に足を踏み入れた。

 その晩、浅い眠りからふと六兵衛が目を覚ますと、隣で寝ているはずの女房の姿がなかった。慌てて起きてみると、女房の草履がない。何が起きたかさっした六兵衛は、すぐさま家を飛び出した。家に帰ってから、一度も話すことなく床についた女房は、我が子を忘れられない様子で、仕切りに外を見ていた。外が完全な闇に包まれると、一層そわそわした様子だった。なんとかなだめて床につかせたが、なかなか眠れないのはゴソゴソと寝返りを打つ物音でわかった。

 六兵衛もそれほど眠れたわけではない。しかしいつの間にか寝ていたようで、女房が起きたことにはまったく気付けなかった。息子のことを振り切れず、おそらく子守稲荷に再びむかったのだろう。六兵衛は昨日往復した道を全速力で走った。

 明け方にはまだ時間があるようで、月明かりだけがあたりをうっすらと照らしていた。まわりの村人たちも、まだ起きていないようで、人の気配がしないあぜ道を、六兵衛はただ走る。そのうち周りに田んぼと畑がなくなり、山道に差し掛かる。その山道をしばらく登ったところ、月明かりもほとんど届かないような森の中に、昨日くぐった真っ赤な連鳥居の入口がひっそりと口を開けていた。

 六兵衛は鳥居の手前で立ち止まる。鳥居の奥は薄暗くてよく見えず、連なる鳥居がこの世ではないどこかへと続いているかのようだった。冷たい夜風が鳥居の奥から吹いてきて、思わず身震いする。女房を探しに行かなければならないのに、その足が鳥居の奥へとふみこめない。

 不意に強い風が吹いた。それまで木々に覆われ月明かりが届かなかった鳥居の道が、木立の間に隙間ができたことで明るくなる。そこに、六兵衛は女房と息子の後ろ姿を見つけた。かがんだ息子を、女房が立たせようと手を引いている。その姿を見た瞬間、六兵衛は思わず走り出していた。

 無事だったのだ。ひと晩近く、暗闇のなか一人ぼっちで待たされた息子も、息子を迎えにいった女房も、後ろ姿を見る限り元気そうである。二人は立ち上がり、手をつないで鳥居の奥へと歩き始めた。なぜ奥へと歩いていくのかわからなかったが、それでも六兵衛はふたりの後を追う。おーい。声を上げるが、周りでうねる風と、揺れる木々のざわめきにかき消され、二人には聞こえないようだった。六兵衛は早く二人に追いつくべく、走る足に力を込める。

 不思議なことに、どれだけ走っても前を行く女房と息子には追いつけなかった。それほど距離は離れていなかったし、歩いている二人にならすぐ追いつくと思ったのだが、その背中がなかなか近づかない。少し息が切れ始めたころ、鳥居が途切れて、とうとう境内までたどり着いてしまった。

 女房と息子は社の前、二匹のお狐さまの間でぴたりと立ち止まった。そこに来て、やっと六兵衛は二人に追いつく。息を切らしながら、おい、と女房の肩に手をかける。そこでようやく気づいた女房がこちらを振り返った。その顔を見た瞬間、六兵衛は思わず固まった。

 女房は、狐のお面をつけていた。社の前に立つ、二匹のお狐様ソックリなお面。母親につられたように振り返った息子の顔にも、同じようなお面が貼り付いている。

 六兵衛は背中に寒いものを感じ、思わず一歩下がった。お面をつけたふたりが、無言でじーっとこちらを見ている。その表情はお面に覆い隠され、うかがい知ることはできない。そこまで来て、六兵衛はさらに妙なことに気づく。目の位置にあるはずの、二つの穴。お面の下から外の世界をのぞき見るためのその穴が、お面のどこにも空いていない。

 気づくと、いつの間にか風は止んでいた。静かな境内で、お面をつけた二人が六兵衛を見ていた。首だけをこちらに向けていた二人が、ゆっくりとこちらに向きを帰る。女房の足が一歩前に出たとたん、六兵衛は回れ右をして走り出そうとしたが、そこで妙なことに気がついた。

 自分がくぐってきたはずの真っ赤な鳥居が、どこにもなかった。

 境内を囲むように広がる、暗闇をたたえた森。そこにポッカリと穴を開けるようにあったはずの鳥居が、影も形もなくなっていた。月明かりすら差し込まない闇をたたえた森に飛び込むことを想像すると、恐怖が足を鈍らせる。帰れない絶望感がじんわりと体を這いだしたころ、柔らかな手が肩に置かれた。

 後ろを振り返る。お面をつけた女房が、自分のすぐ後ろに立っていた。青ざめる六兵衛の手を、こんどは小さな手が握る。お面を付け、こちらを見上げる息子だった。

 二人は何も言わない。ただ無言で、狐のお面をつけた顔を近づけてくる。言い知れない恐怖が体を満たす。六兵衛の叫び声は、夜の闇に吸い込まれていった。

 日本のどこかに今もある子守稲荷。観光やお参りでそこを訪れる人の中には、たまにぼろぼろの着物を着た家族を鳥居の隙間に見ることがあるという。狐のお面をつけ、三人で手をつなぐその家族は、森の中からこちらを見ていたかと思うと、いつの間にか消えているそうだ。

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