先輩と僕4 暦

 いつもの資料室、徹夜明けの眠たい目を擦る。昼休憩に入って気が緩んだ途端、眠気が襲ってきた。コンビニ弁当を開け、箸を伸ばしたところで扉のノックされる音。顔を出したのは、いつもの先輩だった。

 笑顔で入ってきた先輩が、いつものように僕の正面に座る。お邪魔します、とおどけながら広げる弁当は、今日も手作りだ。

 しばらく交わされる挨拶がわりのとりとめもない会話。やがて弁当がお互いに半分ほどなくなったところで、先輩が切り出した。

「昨日は大変だったね。お疲れ様」

 その一言で、今日先輩がここにきた理由がなんとなくわかった気がした。面倒見のいい彼女は、こちらを気遣って来てくれたのだろう。

 差し出されたさつまいもの煮付けが頭に蘇る。思えばあれからもう三か月ほど経つのかと、ぼんやりした頭で考えながら笑顔を作った。

「ありがとうございます。大変でしたけど、なんとか一段落ついたので、もう大丈夫です」

「でも、昨日は徹夜だったんでしょ? 今日は早めに切り上げたほうがいいよ」

「はい、係長にもそう言われてるので、二時にはあがるつもりです」

 答えながら、胸の中に温かみが生まれるのを感じる。昨晩、係長と語り合ったときとは違う質のそれは、柔らかく心地よい。

「でも、思ったより元気そうでよかったよ。結構ショック受けてると思ってたから」

「昨晩係長にいろいろ話を聞いてもらったので。おかげでだいぶ楽になりました」

 弁当に入っていた煮豆をひと粒食べる。ほんのりとした甘さが口に広がり、口が緩んだ。

「先輩は、変わらないものってあると思います?」

 唐突に質問をしてみる。先輩は少し首をかしげてから、曖昧に頷いた。

「どうだろうね。たぶんあると思うんだけど」

「僕はあると思うんです。この前読んだ小説に、変わらないものはないってセリフがあったんですけど、僕はそれ、間違ってると思うんですよ」

 我ながら恥ずかしいことを話していると思った。しかし、徹夜明けのぼんやりした頭がいろいろな自制をとっぱらって僕の口を動かし続ける。

「僕は、僕自身は変わらないと思うんです。もちろん上辺の部分というか、知識や考え方とかは変わるでしょうけど、もっと根っこの、性格の部分は変わらないと思うんです」

 先ほど緩んだ口元が少し引き締まる。笑顔だった自分の顔が、だんだん真剣になるのがわかった。

「今回僕が失敗したのは、僕のその根っこの部分が原因なんです。係長は、何回でも失敗しながら少しずつ成長すればいいって言ってくれたんですけど、僕のこの根っこの部分は、たぶん一生変えられない」

 言葉が熱を帯びる。声が少しずつ大きくなる。

「係長のアドバイスを否定するわけじゃないんですけど、それでもどうしようもない、変えられない部分はある。だから僕は、根本的な失敗対策はできない。同じ失敗をしないのが仕事の鉄則ですが、程度の軽減はできこそすれ、同じような失敗をなくすことは一生無理だと思うんですよね」

 少しだけ、甘えた心が顔をだす。先輩を前にするといつもこうだ。そう思いながらも、僕は自分を止められなかった。

「今回の件で、諦めちゃいました。自分を変えることも、そのための努力をすることも」

 そこで僕の言葉が途切れた。資料室の中に沈黙が降りる。僕は背もたれにもたれかかって、天井を振り仰いだ。大きなため息を、上に向かって吐き出す。

 そのままの時間がどれだけ続いたのかわからない。やがて黙っていた先輩がぽつりと、口を開いた。

「ねえ、仕事って何年くらい経てば一人前になると思う?」

 先ほどこちらがしたような、唐突な質問。上を向いていた視線を向かいの先輩に戻しながら、僕は一般的な答えを口にした。

「えっと、大体三年っていいません? だから一般企業でも、新入社員は三年で異動させるとか・・・」

「私はそれ、間違ってると思うの」

 僕の言葉が終わらないうちに、先輩が言い切る。自信を持った笑顔が、僕の正面にあった。

「自然界では、十二月頃に植物は枯れる。冬っていう、眠りの季節がくる。そうして少し経つと、新しい年が始まるよね」

 話の行き先が見えず、僕は曖昧に頷く。

「一月と二月は寒い日が続いて、植物や動物たちも活発に活動しないわ。それでも地面の下では、新しい命が着々と根付いている。そして三月の終わり頃に暖かくなり始めて、四月にやっと芽が出るの」

 いい? 僕に言い聞かせるように先輩が前置きする。

「仕事も同じ。一年目を新しい年の始まり、つまり一月と考えれば、芽が出るのは四月の四年目。三年間まるまるつかって、やっと仕事が形になり始めるの」

 そこまで聞いて、僕はためらいながらも反論する。

「でも、それはあくまで暦ですよ。人間の成長とは関係ないんじゃ・・・」

「人間も自然のなかで生きてきたんだから、自然界のリズムっていうのはきちんと存在するの。私たちの体の中に、それこそ無意識的にね」

 自分の言葉を全く疑っていない、先輩の言葉。その力強さに、頭のどこかが否定しようとしても、体は勝手に頷いていた。

「むしろ自然の流れを考えるなら、葉が枯れた十二月がスタートとして、まるまる四年は芽が出ない計算になる。君はまだ三年目だから、頭角を現すにはあと一年はかかるってこと」

 先輩の人差し指が一本立つ。それがグイっと、こちらに向けられた。

「仕事だけでなく自分の中身も一緒。君が自分を変えようと思っているなら、それはきちんと君の中に根付いていってる。ただ発芽の時期を待っているだけよ」

 そこで先輩の言葉が止まった。またも降りる沈黙。僕は先輩に圧倒され、固まって動けないでいた。

 先輩のまっすぐな目が僕を貫く。その力強い視線が不意に緩められられたかと思うと、その表情が優しい笑顔となった。

「大丈夫だよ。君は自分を変えられる。変化は努力し続けたあと、ある日突然やってくる。だから、もう少し、諦めないでやってみて」

 先ほどとは打って変わった、そっと語りかけるような口調。そのとき僕は、思わず先輩に見とれてしまった。こちらを励ますその笑顔に、胸が熱くなるのを感じた。

 しかしそれも束の間、先輩は言うだけ言うと、さっさと弁当を片付けてしまう。時計を見ると、もうすぐ昼休憩が終わる時間だった。

「それじゃ、あんまり無理しないで早めに帰ってね。お疲れ様」

そう言い残して先輩は資料室を出て行ってしまう。あとに残されたのは、僕と、僕の目の前にある食べかけのコンビニ弁当だけ。

 静かな資料室を、静寂が包む。僕はしばらくぼんやりと、椅子に座っていた。

 無理矢理な理論だと思った。今まで聞いたこともない、根拠のない話で、普通なら信じない。それでも、先輩の真剣な表情が目の前に浮かぶと、あっさりと否定できない自分がいた。

 もう少しだけ、頑張ってみてもいいかもしれない。

 僕は食べかけの弁当を掻き込んで立ち上がる。変化の芽が、自分の中で根付いていることを願った。

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