10 りゆう

女将さんが扉の前に立つのと、扉がノックされる音が聞こえたのは同時だった。女将さんは一度だけ翔太のほうを確認するように視線を投げかけてくる。翔太は目元をぬぐい、鼻をすすってから然りとうなずいた。女将さんは少し笑ってから、扉をゆっくりと開けた。

 そこには、風呂からあがり、浴衣に着替え、ガラスのコップと麦茶の入ったポットを手に持った楓の姿があった。湿った髪の毛は、後ろで縛ってポニーテールにしてある。

「どうやら、新しいコップを持ってくる必要はないようですね」

 楓のコップをみて、おかみさんはそうつぶやく。楓は翔太の部屋からおかみさんが出てきたことに少し驚いたようだったが、すぐに会釈しておかみさんに道をあける。

「ああ、ありがとう。それでは、ごゆっくり」

 道を開けてくれた楓にお礼を言い、おかみさんは部屋を出て行った。後には部屋の中で座っている翔太と、扉の前に立つ楓が残された。

「…入っても、いい?」

 いつも通りの静かな声で、楓が問いかけてきた。その表情はいつも通りの無表情だが、どこか躊躇しているような印象を受ける。

「うん。いいよ」

 翔太は笑顔で答えて、手近にあった座布団を床に敷く。自分から近くもなく、遠くもない、そんな位置。楓はゆっくりと部屋に入ってきて、扉を閉めた後、その座布団に素直に座った。

 二人はちょうど向き合うような形で座る。楓は翔太の顔を見て少し驚いたような顔をした。おそらく泣いたばかりだからそれがばれたのだろう。翔太はそのことを尋ねられる前に、話を変えようとポットを持ち上げて、飲む? と問いかける。少しだけ不思議そうな表情を残したまま、それでも楓はコクリとうなずいて、素直にコップを差し出してきた。翔太はそこに麦茶を注いでやる。

「僕さ、清泉さんに、謝らなきゃいけないことがあるんだ」

麦茶を注ぎ終わってから、翔太がそう切り出した。まっすぐに、楓のほうを見る。楓は少し驚いたような表情をしたが、そこで翔太の言葉を待つことはせず、代わりにこんなことを言った。

「わたしも、言わなきゃいけないことがあるの」

 しっかりと翔太の目を見て、そんなことを言った。しかし、すぐに視線を落としてためらうような表情になってしまう。じっとコップの中の麦茶を見つめているようだった。

 なんと声をかけていいのか翔太はわからず、しばらく二人の間に沈黙が下りる。楓の言葉を待つべきか、自分から言うべきか。少し考えてから、翔太は後者をとることにする。まず何よりも先に、自分は楓に謝らなければならない。

「それじゃ、まず、僕から謝らせてくれないかな」

 そう声をかけたがしかし、楓は首を横に振った。それは今までの楓からは想像できないような、激しい首の振り方だった。目を瞑り、懇願するように首を振る。後ろで縛った楓の長い髪の毛がそれに合わせて揺れた。

「お願い、私から、言わせて」

 相変わらず視線を合わせず、楓はそういう。自分から謝らなければと思ったが、先ほどの楓の様子をみて、翔太は結局楓の言葉を待つことにする。またしばらく沈黙が下りたが、やがてひとつ深呼吸してから、楓は話し始めた。

「私、お母さんがいないの」

 楓の第一声に、翔太は少し驚きを覚える。しかし、あえて聞き返さず、楓が話しやすいように黙って先を待った。

「もともといたんだけど、私が中学二年生の時に交通事故で死んじゃったの。お父さんは単身赴任してて、一人になっちゃった私はいったん転校してお父さんが勤めてる場所の中学校に転校した」

 楓は翔太と目を合わせずに、話し続けた。こんなに話す楓を翔太は初めてみる。いつもは無表情な顔も、今はどこか悲しそうにうつむいていた。

「でも、転勤が多いお父さんよりはお母さんのほうのおばあちゃんたちにお世話になっていたほうがいいんじゃないかってことになって、高校に入るのと同時にまたお母さんとすんでいた今の町に帰って来たの」

 そこで楓は一口麦茶を飲んだ。少し話すのが苦しそうに、ふう、と息を吐き出す。

「お母さんとね、死ぬ前に、一緒に旅行に行こうって言ってたの。お父さんがいないけど、それでも楽しい旅行にしようって、そう話してた矢先、お母さんは事故にあった」

 楓はすっと、窓の外に視線を向けた。その視線を、翔太も無意識のうちに追う。そこには、開けられた窓に切り取られた、夜空があった。

「その旅行に行こうって言っていた場所が、ここ」

 強い風が、部屋に吹き込んできた。翔太は驚いて楓を見る。楓は窓の外を見つめたまま、無表情でいた。それは、今まで楓が学校の屋上からここをみるときの表情だった。

「ここには、とてもきれいな場所がある。お母さんは昔ここに来たことがあって、その時みたとってもきれいな場所を私にも見せたい。だから、一緒に行こうって約束をしていたの。私は、お母さんが死んだ後も、その言葉をずっと忘れることができなかった」

 楓は窓の外を見続けている。その視線の先に何が映っているのか、今の翔太にはわからない。窓の外を見ているようで、実はそうではないようだった。

「お父さんと一緒に暮らしている時は、まだよかった。ここから遠かったし、まだ何とか気持ちを抑えていられた。でも、こっちに帰ってきてからは、無理だった。気づくと、いつも母さんと一緒に行こうとしていた山を見てる。あの山を越えれば、お母さんと一緒に行くはずだった場所がある」

 まるで楓は、独り言を言うように話し続けた。その言葉は翔太に向けられた言葉だったはずなのに、なぜだか自分に言い聞かせているように翔太には感じた。

「あそこに行ってみたいと思うのだけれど、どうしてそうなのかわからなかった。お母さんはもういないし、あそこに行く意味が本当にあるのかもわからない。それでも、私はここに来たかった。お母さんと一緒にみるはずの景色を見たかった」

 そこで楓の視線が翔太に映った。その表情は無表情から、どこかはかなげな微笑に変わっていた。

「そんなとき、あなたがきた」

 学校の屋上、初めて扉を開けた時の記憶が、翔太の頭の中でフラッシュバックする。そこで見つけた少女が、いま、自分の前に座っていた。

「ここに来たかったのに、心のどこかで私はここに来ることが怖かったの。お母さんと一緒に来れなかったことを悔やんでしまいそうで、一人だけできていろいろな思いにつぶされそうな気がして。だからと言って、私、学校では一人だったから、一緒に行こうってお願いできる友達もいなかった。私、無口で、おしゃべりがほとんどできないから」

 一瞬悲しそうな表情が楓の顔に浮かぶ。しかし、その表情はすぐに消え、はかない微笑に変わった。

「そんなとき、あなたは言ってくれた。一緒に行こうって」

 夕方、夕日が差し込む屋上で、山を見つめる一人きりの少女に、翔太がかけた言葉だった。

 楓の目に、涙が浮かぶ。翔太はその顔を、黙って見つめているしかなかった。楓に、何も言葉をかけることができなかった。

「そして、見せてくれた。私がお母さんと一緒に見に来るはずだった景色を。お母さんが私に見せようとしていたものを。それが、とてもうれしかった」

 楓の涙が畳に落ちる。その頬を伝う涙をぬぐうこともせず、楓ははかなく笑っていた。

「あの時は、泣いちゃってごめん。とっても迷惑かけて、いけないことだとは思ったけど、私、心の中の何かが切れちゃって、泣くのをやめれなかったの。あの時は、ごめんね」

 すっと、楓が頭を下げる。あ、いや、と口ごもる翔太にかまわず、楓は顔をあげ、その涙が流れる顔のまま、今までで一番きれいだと思える笑顔を翔太に見せた。

「だから、私をここに連れてきてくれて、一緒にここにきてくれて、どうも…」

「っ!」

 そこまで言葉を聞いた瞬間、翔太の体は勝手に動き、楓の口を押さえていた。いきなり動いた翔太に、楓はびっくりして目を向いている。しかし、翔太はその先の言葉を聞くわけにはいかなかった。

「ごめん。その先の言葉は、聞けない」

 顔を伏せ、楓の顔を見ないまま、翔太は言った。楓が今口から出そうとした言葉を今の翔太は聞くことができなかった。その言葉を聞いてしまうのは、楓に言わせてしまってはいけないことだった。

「僕、楓のことを思って、楓をここに連れて来たんじゃないんだ」

 楓の口から手をゆっくりと話しながら、翔太が言った。翔太は顔を伏せたままのため、今の楓の表情をみることはできなかったが、それでも翔太の言葉を待っていてくれることだけは気配で分かった。

「僕、昨日卓球部の入部テストに落ちちゃって、その、自分の学校での居場所がなくなっちゃうのが怖かったんだ」

 胸の奥がまた鈍い痛みを発し始める。その痛みは先ほどよりもだんだん強いものへと変化していった。楓の今聞いた言葉が頭の中で反響し始めて、罪悪感が先ほどよりも増す。

 しかし、だからこそ、これは楓に言わなければならない。楓にここで嫌われても、これだけは謝らなければならない。

「僕、クラスでは一人ぼっちで。それでも卓球部なら僕の居場所になると思った。拒絶されないと思った。でも、入部テストで落ちて、手に入れたと思ったその居場所は、またなくなっちゃった」

 声が震える。目がしらが痛み、涙が徐々に出てくる。先ほど止まったと思っていた感情が、再び涙となりあふれ出てくる。

「そんなとき、学校で唯一残ってた、楓っていう居場所を、僕は…僕は手放したくないって思って、嫌なことからも、ぜ、全部、逃げたくなって…」

 息がひきつるせいで、言葉がうまく出なくなる。嗚咽のせいで、言葉が聞き取りにくくなる。それでも、ここでやめるわけにはいかなかった。翔太は泣きながら、顔を伏せたまま、半ば叫ぶように、言葉を吐き出す。

「だから、か、楓の、き、気持ちを利用して、ここ、に、来た。楓を、誰にも、と、取られないように、ここまで連れてきた。だから…」

 ごめんなさい。そういうつもりだった言葉は、背中に優しくおかれた手によって止められた。

「…それでも、私はうれしかった」

 ゆっくりと、翔太は顔をあげる。そこには、涙で頬を濡らしたままの、楓の笑顔があった。怒りもせず、拒絶もせず、ただ優しい、笑顔がそこにはあった。

「だから、言わせて」

 その笑顔を見て、翔太の心の中で先ほど言おうとしていた言葉が消えた。その言葉を言うまでもなく、楓は自分を許してくれていた。

 いつもより優しい、そして美しい笑顔で、翔太を受け入れてくれていた。初めて会った時のような、拒絶も受容もない無表情ではない。翔太は、その笑顔を見て、ゆっくりと口を開いた。

「…僕にも、言わせてほしい」

 鼻を一度すすり、息を整えるために、翔太は一度深呼吸する。楓も一度深呼吸してから、翔太をまっすぐ見つめた。そのまま二人は視線を外さず、同時に口を開いた。

「「ありがとう」」

 涙まみれの顔で、二人は言葉を重ねる。

 夜空には、満天の星が輝いていた。

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