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デザインってなに? ver.1

こんにちは。いくとです。

今回は、個人的なデザイン観について述べていきます。
とはいえ、デザインってそもそも何?という話です。

ここからすでに、個人的な意見なのですが、デザインとは、個人やその場によって違う、”価値観”にある種似たものだと思っています。
曖昧です。だからあえて、冒頭でデザインとしたのです。

デザインって何

僕にとって、デザインとは、人が関わって作ったもの全てだと思います。

まずデザインと聞いて、パッと思い浮かぶのは、商品のパッケージ、WEBサイトのフォントや色などではないでしょうか。また家具や器などはもちろん、イラストや絵もデザインです。
ただ、それだけではなく、いつも通る道路の幅や街路樹の位置、吊り革の高さや扉の大きさも立派なデザインです。

デザインは身の回りにありすぎて、当たり前になっているものが多いです。無意識に使っていたり、持っていたりするそれも、デザインされたものなのかも。

無意識を意識するのはとても難しい。だって全てに意識を払うことは不可能だから。だけど、ほんの少しならできるかも。
「これって、デザインした人がどこかにいるのかな」という視点で日々生活すると、色んなことに気づけます。

デザイン(観)に正しい、正しくないはない。と、先ほど述べました。
しかし、良いデザイン、悪いデザインは、あると思います。
これも人による部分もあるのですが、大半の人が違和感を感じないデザインは、いいデザインだと思います。
「そこにあるのが自然」「普通こう使うでしょ」「というか、意識したことない」
これらは、デザインが成功している印だと思います。周囲の環境に適合している。むしろ、環境そのものになっている。

プロダクトデザインで考えてみましょう。
あなたは、S字フックの使い方を誰かに習いましたか?
どこかで誰かが使っているのを見たことはあるかもしれません。
でもちゃんと習ったことはないはず。
だけど、上の方の曲部を棒や何かに引っ掛けて、もう片方の曲部に吊るすものをかけるとわかっている。そうするしかない。というか、当たり前すぎていちいち考えもしないで動いている。

これって結構、すごいことだと思いませんか?
極端ですが、原始人がS字フックを見てもどう使うかわからないはずです。
そりゃまあ、一度見ればわかるって話ですが、それがいいデザインだと思うのです。
取手を持ちたくなるように、ハンガーをかけてしまうように、インターホンを押したくなるように、そのモノに合うようにモノ、空間、人、行動などを当てはめる、当てはめたくなる。
なんなら、いつの間にか当てはめてしまう。
これが究極のプロダクトデザインだと思います。


「それ」が「それ」と分かるのはなぜだろう

私たち人間は、車の認識ができる。
外観だけに限ったとして、スポーツカーも、軽自動車も、トラックも、おもちゃでも、アニメでも、かなり遠くからでも、車だと認識できる。
絵文字🚗。これも車。
形も色も動きも何もかもが違う。なのに車だと一瞬でわかる。これはなぜか。

文脈によってそれと判断できるのではないか。
という仮説が僕の中にあります。
「文脈」には、使い方や動き方、その他のものとの関係性、時間、空間が含まれている。写真はその文脈の一部一瞬を切り取ったものだとも言える。

動画には画像よりもさらに多くの文脈が含まれる。音、光の反射の仕方、外部からの干渉への反応。押すと凹むとか、風になびくとか。

目の前にすると、全ての文脈がわかる。触感、匂い、大きさ、重さ、みたいな。
それらの文脈を繋げて、私たちはそれをそれと認識する。

認識に使う文脈は、全てでなくていいかもしれない。
大抵は、文脈の一部で判断している。
しかし、これが抜けると判断できない!という文脈の要素がどこかにある。それは使い方だったり、大きさだったり、色だったりするかもしれない。
その、「判断するために必要最低限な要素」は何なのだろう、とよく考える。

今まではそれをそれだと判別できたのに、「ある要素」が抜けただけでわからなくなってしまう。とても不思議。逆にいえば、他の要素はなくても、「ある要素」だけがあれば、誰が見ても「それ」と判断できる。
そんな必要最低限の要素で「それ」とわからせるデザインが好きだ。
ピクトグラムがその最たる例だ。

これを思いついたのは、友人と、薬院にある本屋に行った時。
クリエイターの佐々木俊さんの絵本、「ぶるばびぶーん」を見た時。
タイヤである二つの円と、その上に乗るボディを表す四角形だけで「車」と認識させる。
さらには、この円や四角形を歪曲させることで、スピード感や急停止など、動きまで表現する。これはすごいと思った。

私は、円が二つと四角形が一つ。あとはその上下関係でそれが「車」だと判別できるのか。と驚いた。
あんな複雑な要素の絡み合った車は、最低限その三つの要素で表せるのだ。

階段を構成する要素は?

ある日ふと、階段を見て思った。
階段って、なぜ階段だとわかるのだろう。
僕なりに要素を探してみた。

  • 直方体が連なっているような形

  • 一段は直線で構成されている

  • 重力に向かって反対側に連なっている

  • 人が歩く

これくらいではないだろうか。
あなたなりに他の要素がないか考えてみてほしい。その要素は果たして必要だろうか。その要素がないと「階段」とは呼べなくなってしまうだろうか。

いつも無意識に通っている階段。
ピクトグラムでは直線のみで表されることもある。

階段って、なぜ階段なのだろう。

引いた美しさが輝く理由

最近は、シンプルなものが人気な気がする。
特に若い世代に対して。
IKEAをはじめとする北欧風家具や、無印良品、香水のshiroなど。
カフェもコンクリ打ちっぱなしの壁紙のない、殺風景なお店が多くなったと思う。
これらを僕は、「引いた美しさ」と呼んでいる。余計な装飾をしない、機能と清潔さと魅力を兼ね備えたデザイン。

これらが輝いて見える理由を考察してみた。
それは、大量消費時代の終焉と関係があると思う。
戦後から1990年代までは、作れば売れる、とにかく買う、買ったら捨てるの大量生産大量消費の時代があった。そんな時代はもう変わったと叫ばれてから長い今現在。
変わったと言いつつもその名残はどこかしこにあるような気がする。
いいものを作った。こんなすごいものがある。とても便利になる。そんな広告はよく見る。

私たちはもう、情報過多に疲れたのではないだろうか。
ネットの海はどこまでも広がり、SNSは常に最新の情報を垂れ流す。
隙間があれば広告を入れて何かを伝えてくる。もういっぱいいっぱいだ。
でも無視することもできないほどに、インターネットは生活に溶け込んでいる。

そんな中で、パッケージや製品まで情報過多だと嫌になるのは当然だと思う。棚を見れば、我先にと言わんばかりの情報伝達戦が静かに繰り広げられている。
どうにかしてあなたの目線を奪おうという殺気が伝わってくる。
そんな商品ばかりになったから、あえてそこで物言わぬ顔をした商品が目を引くようになったのだと思う。


刺さる人刺さらない人がいる

こういう話は、人によっては嫌がられる。
「いちいちそんなこと考えてない」「別に興味がない」と。
それは当然、人によって好き嫌いがある。別にいい。

ただ僕は、こんな話を延々としていたい。
こんな話をできる人が好きだ。

きっと、この話をできる人は、考えることが好きな人だと思う。
答えの出ないことや、どうでもいいようなことを、ただひたすらに思索する。
僕も考えることは好きだ。というか、無意識に考えるようになってしまっている。

ただ、考えるのはいつも頭の中だけ。その外側にある発想は絶対に出てこない。だから、人と話がしたい。
「あぁ、この人はこう考えるのか。」「じゃあ、こんな考えもできるんじゃないか」
なんて、人の考えを聞いたり、自分の考えと混ぜ合わせるのが楽しい。

本を読むのもいいが、たまには自分の考えに対して意見が欲しくなるのが人間だ。

今は、最低限の構成要素を探している。
人生の最低限の構成要素はなんだろう。
生活の最低限の構成要素はなんだろう。
幸せの最低限の構成要素はなんだろう。

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