見出し画像

   (三)小説家になる!!

 では、小説家として世に出るにはどうすればいいでしょう?
 一番最初に思いつくのは、大手出版社が主催している、小説の新人コンクールに応募することでしょう。しかし、これがなかなかの難関です。何故なら、日本中の腕に覚えのある作家志望者たちが応募してくるのですから、その中から頂点を勝ち取るのは、至難の業と言っていいでしょう。“汝、力を尽くして狭き門より入れ”という言葉がありますが、小説コンクールに限って言えば、一人しか頂点に立てないので超狭き門です。
 運良く入選したとしても、五木寛之が小説現代に入選した頃と違って、今はその後のアフターケアはないと聞きます。
 それに、最近の直木賞は長編が主で、新人賞というよりは、何冊も本を出版していて、ある程度名前の知られた人が受賞しているようです。いわば、功労賞のようなものです。その点、芥川賞は、今でも短編が受賞することが多く、まったくの新人作家が受賞する傾向があります。
 もっとうがった見方をすれば、今は川端康成、三島由紀夫が現存していた頃と違って、純文学の書き手が少ないので、直木賞より芥川賞の方が狙い目かもしれません。
 純文学向けのこれはという題材を見つけて書けば、案外ぶっちぎりで、簡単に芥川賞が獲れるかもしれません。
 しかし、芥川賞を受賞しても、現役の学生が受賞したとか、名の知れた芸能人が受賞したとか、20歳前後の見映えのいい女性が受賞したとかという話題性がないと売れません。
 それに50歳以上だと、新人コンクールに応募しても、当選させないという暗黙のルールがあると聞いたことがあります。何故なら、小説といえどもビジネス、経済活動の一環なので、コンクール主催の出版社としては、若い作家の方が、その先の実働期間を考慮に入れて選ぶからです。当然、若ければ若いほど実働期間が長くなり、出版社に対してのお礼奉公の貢献期間が長くなります。
 しかし、小説の場合、シナリオと違って、発表の場がたくさんあります。自費出版、同人誌、それに最近では、出版費無料(配信料のみ有料)という電子書籍という“自主出版”があります。但し、電子書籍は、直木賞、芥川賞のノミネート対象外です。電子書籍は膨大な数ですので、そこまで審査の間口を広げると、審査が大変だからでしょう。
 電子書籍は誰でも出版できていいのですが、大手出版社から出すのとは違って、宣伝をしないのでどんなにいい作品を出版しても、まず売れません。食品関係や車のような一般商品でも、高いカネを投資して宣伝するから売れるのであって、宣伝して世間に告知し、認知されなければ売れません。かと言って、大手出版社主催のコンクール入選作やベストセラー本を読んでも、「う~む、どこがいいのだろう----?」という代物が多いのも現実です。自分の感性が世の中とズレているのかと心配になり、他の人に訊くと、やはり同意見なので一安心するとともに、何を基準にしているのかよく分からないというのが本音です。
 中には、シナリオ、小説のコンクールで、応募していないにもかかわらず入選した人がいるという話を聞いたことがあります。
 それは、実績があり、力のある作家が、知り合いの作家志望者の原稿を、テレビ局なり出版社に、「私の教えている生徒が面白い作品を書いてきたんだけど、ちょっと読んでくれる」と持ち込むと、「今、うちでやっている新人コンクールの応募は締め切ったのですが、これはといういい作品がないので、この作品を応募したことにしましょう」と言って、コンクール審査の一次、二次を通過したことにして、最終候補に残し、そのまま入選作になったそうです。コンクールというものは、地域格差をなくし、公平を期すためにわざわざ募集要項に、締め切り日を〇月〇日消印有効としているのですから、明らかにルール違反としか思えません。
 ズルをしてプロになった人は、プロになってもよくパクリをやっています。きっと、そういうデビューの仕方をしたから、何をやっても許されると錯覚しているのでしょう。しかし、そうやってズルをして作家になった人は、一時期良くても、すぐに化けの皮が剥げて、ダメになってしまう傾向があります。
 俳優のオーディションでも、主催者と芸能事務所の話し合いで、あらかじめグランプリ受賞者は決まっているのにもかかわらず、話題作りのためにオーディションを実施する場合があります。
 しかし、そうやってグランプリに輝き、華々しくデビューしても、その後パッとしないことが多いのもまた事実です。運良く頂点を極めても、その先に大きな落とし穴が待ち構えていて、晩年は借金を踏み倒したり、犯罪に加担したりと、惨めな思いをしている人をよく見かけるのも現実です。
 運に恵まれて若くして世に出た人にも、このことは当てはまります。若いときは結果オーライで、体力的にも精神的にも少々の無理をしても大丈夫ですが、年を取ってからその無理が徐々に体を蝕んで、若死にする例をよく見かけます。
 やはり、「人は見ていなくても、神は見ている」というのは、真実のようです。
 俳優の世界でも、親の七光りでいとも簡単にデビューし、すぐに主役をやっている人も、その後ダメになる人が多いようです。
 どの世界でも、デビューのきっかけを摑むのが大変なのに、それをいとも簡単に摑んでデビューする人は、苦労して摑んだものではないので、手放すのも早いようです。
 一般社会でも、一流企業の入社試験などは、写真判定ぐらいの差しかないにもかかわらず、ズルをしてコネ入社した人は、小成に甘んじる傾向があります。苦労して手に入れたものではないので、「まあ、このくらいで良しとするか」というところでしょうか。やはり、大成するには、ハングリー精神が必須のようです。
「自然は、すべて偉大なものに、汗と努力とを配するのであって、苦労しないで手に入れたようなものに、本当の成熟を拒む」というのも、また真実のようです。
 弱肉強食、過当競争の作家、プロスポーツの世界では、シビアに数字で評価されますから、コネより実力が全てと言っていいでしょう。
 売れないときは、「どうして(こんなにいい物が)売れないんだろう----?」と思うそうですが、逆に何かのきっかけで売れ出すと、「どうして(こんなつまらない物が)売れるんだろう----?」と思うそうです。勢いなのか----? 時の運なのか----? 神のみぞ知るということでしょうか。中には、売れるように仕掛けるというのもありますから、この世の中、何が何だかよく分かりません。
 このことは映画に関しても言えます。外国の名だたる映画賞を獲った映画を観ても、「う~む、この作品、どこがいいのだろう----?」と首を傾げたくなる作品が多いのも事実です。何か、裏で政治力が働いているやに聞きます。ドラマでも、芸術大賞などは視聴率度外視で、そのテレビ局のステイタスを高めるために、最初から狙って作る物だと聞いたことがあります。
 小説家志望の人ならご存知でしょうが、日本の小説には大きく分けて、純文学と大衆文学(エンターテインメント)があります。
 純文学は、川端康成、三島由紀夫に代表されるように、ストーリーよりテーマに重きを置いた作品です。
 大衆文学系の小説コンクールに、どんなに素晴らしい純文学作品を応募しても、100%入選しません。逆も同じです。
 要は、題材によってどちらのコンクールに応募した方がいいかが重要です。
 石原慎太郎が世に出た『太陽の季節』は、第一回文学界受賞作で、その年の芥川賞も受賞して、社会的なブームを巻き起こしました。
 私も、その作品を何年も前に読みましたが、
<当時の若者たちの群像を見事に捉えた、よくできた作品だなあ。しかし、本当にこの作品を、当時まだ大学生だった人が書いたのだろうか----!? そうだとしたら、当時の学生は、今の学生と違って、ずいぶん大人びていたんだなあ>
 と、感心したものです。あとで知ったことですが、この応募作品を書いたのは、別人だったそうです。----と書くと、「えーッ!?」と思われるでしょうが、実は、石原慎太郎は左利きで、知る人ぞ知る悪筆なので、彼の書いた原稿をそのまま応募しても、審査員が読めないだろうと、当時つき合っていた彼女である、のちの典子夫人が清書して応募したそうです。
 しかし、この作品、第二次世界大戦からまだ10年しか経っていない、高度経済成長期前夜の昭和30年当時の若者の生態がよく描かれた風俗小説なので、私は、芥川賞より直木賞ではと思いました。
 昭和28年の上半期芥川賞を受賞した松本清張の『或る「小倉日記」伝』は、当初直木賞候補にノミネートされていました。それを審査員であった人が、これは芥川賞の方がいいのではと言って、そちらに回され、芥川賞を受賞しました。しかし、その後の松本清張作品を見ると、やはりこの作家はエンターテインメント作家だったようです。
 石原慎太郎にしても、『青春とはなんだ』という、石坂洋次郎作品を彷彿させるエンターテインメント作品がありますので、一概に純文学作家、大衆文学作家と分類できないような気がします。
 ちなみに、純文学と大衆文学という分け方は日本だけで、外国では、“いい小説”と“悪い小説”しかないそうです。
 三島由紀夫にしても、何度も映画化された『潮騒』などは、どうみても純文というより、ストーリー重視のエンターテインメントでしょう。川端康成の『伊豆の踊子』も、そう思われます。
 
 次に小説家として世に出る方法として、出版社に直接売り込みに行くという方法がありますが、出版社の編集部員も、目の前の仕事が忙しく、持ち込み原稿など読んでいる時間はありません。名もない新人作家が、これからの出版界を背負っていくにもかかわらず、新人作家に目を向けている余裕はないようです。これでは、作家志望者が減っていくという悪循環に陥ってしまいます。それが、今の出版不況の一因ではないかと思われます。才能のある人は、勢いのある業界に流れていきます。今なら、ゲーム業界、IT業界といったところでしょうか。
 私も何度か原稿を出版社に郵送しましたが、まず反応はありません。
「原稿を読ませてもらいましたが、よくできた作品なので、一度お会いしましょう」などと色よい返事は、まずありません。
 反応がないことがほとんどで、あっても、郵送した原稿が返送されてくるだけです。封を開けて驚くのは、自分の書いた原稿が入っているのはもちろんですが、何とか認めてもらおうと、誠心誠意書いた手紙まで同封されていたことがありました。つまり、原稿も手紙も読んでいないということでしょう。せめて手紙ぐらいは、読んだ証として返却はして欲しくないものです。
 中には、私がワープロで書いた自分の住所、名前の差出人のシールを、ハサミで切って糊付けして宛名に貼ってあったこともありました。それを見たときは、「出版業界は人材がいないんだなあ----」と思って、がっかりしたものです。
 最初の方で書きました、『ハリー・ポッター』を書いたJ・Kローリングやスティーヴン・キングのような奇跡は、日本では99.9999%ありません。
 欧米にはエージェントという人がいて、新人作家が世に出やすいシステムがあります。日本でも最近エージェント会社ができつつあるそうですが、まだ定着していません。
 一時期、“自費出版”というのがブームとなり、今では出版不況からか、大手出版社もなりふり構わずこの形態に手を出しているようです。
 私も、一度この出版方法で本を出しましたが、まず売れません。知人、身内が買ってくれたとしても、たかが知れています。詐欺商法にあったような、嫌な思いをするだけです。
「いや、いや、他の人の作品はつまらないから売れないだけで、自分の作品はよくできているので、必ず売れる筈だ」
 と錯覚し、欲をかいて自分で宣伝費を払ってまで、一か八かの勝負に出ます。その結果、あとに借金が残り、自己破産の道にまっしぐらです。
 こういう自費出版ビジネスに頭にきて、裁判に訴えて勝訴した人がいると何かの本で読んだことがあります。
 そういう出版社は、作者に“協同出版”という名の出版形態を提案し、作者からカネを巻き上げるだけで、大手出版社のように、作者を育てようという気は全くありません。
 原稿を提出すると、編集者から、
「これは素晴らしい作品なので、このまま埋もらせておくにはもったいない作品です。是非、出版して世に問うべきです」
 という歯の浮くような文面の手紙が来ます。
 作家志望者は、こういう褒め言葉に飢えているので、すぐに引っ掛かります。そういう文面の手紙を書いてくるのは、新手の詐欺商法と同じ手法です。そういう手紙の文面に、コロッと騙されて、なけなしのカネをはたいて自費出版に手を出してしまいます。
 自費出版社は、作者からもらうカネで経営が成り立っているので、たとえその作品がよくても、宣伝はしてくれません。いい作品でも、宣伝をしないことには売れません。大手出版社の作品は、高い宣伝費を投資するから売れるのであって、どんなにいい小説でも、新聞広告などを打たなかったら絶対に売れません。自動車会社や、食品、衣料品などの大手企業が多額のカネをテレビコマーシャルにかけるのは、商品の認知度を高めて販売したいからです。それゆえに、テレビ業界では視聴率が重要視されます。視聴率が低いということは、それだけ見ている人がいないので認知度は高まりません。
 その番組で、どういう商品のコマーシャルをやっているかで、この番組は、どの年齢層をターゲットにしているかが分かります。
 間違っても、世に出るのを焦って、弱小出版社からは出版しない方がいいです。そういう会社は、宣伝という軍資金がないので、どんなにいい作品でも、まず売れません。それでは自分が宣伝費を負担するからと広告代理店に言っても、出版社が了承しないと広告は打ってくれません。個人では、広告費の支払いの信用がないからだと言われました。
 同人誌という手段もありますが、確かに同人誌は、直木賞、芥川賞の審査対象にはなりますが、ここから直木賞、芥川賞候補になったという話は聞いたことがありません。
 最近はアマゾン電子書籍を筆頭に、“自主出版”という出版形態がありますが、残念ながら電子書籍は、直木賞、芥川賞の審査の対象にはなりません。まあ、直木賞、芥川賞を獲るのが目的で小説を書いているわけではないので、「別に----」という感じですが、やはりこの二つは、話題性から言って、小説家になるための登竜門、ビッグイベント、ビッグタイトルです。
 電子書籍は審査が緩いので、出版数が膨大で玉石混交です。その結果、メジャー出版でなら芥川賞、直木賞を獲って、ベストセラーになってもおかしくない作品が、その中に埋没してしまい、永遠に日の目を見ないという悲惨な結末を迎えることになります。
 私も現在、アマゾンのKDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)という電子書籍から、23冊(2024年1月現在)出版しています。紙の本と違い、価格も自分で決められますし、所定の項目を書き込んでアップロードすれば、早ければその日のうちに、遅くとも72時間以内には出版できます。自費出版と違って無料なので、私のように、次々とアイデアが湧いて、書きたい作品が沢山ある、多作のできるストーリーテラーにとっては、願ってもない出版形態です。
 それに、出版後に、あの部分は削除した方がいい。あそこは、こう書き直した方がいいと気づいた場合、すぐに自分で修正し、再出版ができます。
 スマホやワープロという文章作成ツールができたお陰で、ブログやSNSという自分から文章を発信できる場ができ、我々作家志望者にとっては、いい時代が来たのかもしれません。
 これだけ数多く出版していれば、何かのきっかけで大ブレイクして売れる可能性があります。そのとき、陳列棚にある商品は、多いに越したことはありません。
 売り上げも、リアルタイムでチェックできるので、励みになりますし、世界同時配信なので、アメリカ、カナダ、インド、ブラジルと世界中で買ってくれる人がいます。きっと仕事で現地に駐在している日本人か、日本語を習っていて多少日本語が読める現地の人が買ってくれているのかもしれません。“大河の一滴”という言葉がありますが、たった一人の人が読んで、口コミで広めてくれ、外国で爆発的に売れ、逆輸入ということも無きにしもあらずです。
 アメリカなどは、作家としての過去の実績よりも、その作品が良ければ、無名だろうと、名のある作家であろうと関係ないそうです。チャンスの国、アメリカならの合理的な考えです。
 アメリカでのエピソードだったと思いますが、ある朝、電子書籍を出版している女子高生が、起きてすぐにスマホかパソコンで、自分の銀行口座を見たら、ゼロがズラーッと並んでいて驚いたそうです。きっと、何百万、何千万の印税が入っていたのでしょう。そういう奇跡が起きるのも、電子書籍のいいところかもしれません。何せ、Amazonの印税は、70%ですからね。紙の書籍の10%の印税の7倍です。宝くじを買うより確率がいいかもしれません。
 最近は、ネットの拡散力のお陰で、昨日まで誰も見向きもしなかった観光地が、旅行者か誰かが発した配信で、一躍注目されて世界中から旅行客がやってくるという現象が起きています。
 これは書籍でも起きうることで、電子書籍を読んだ人がたまたま有名なインフルエンサーで、その本の事を紹介し拡散してくれたら、一躍ベストセラーということもあり得ないことではありません。今の世の中、何が起きるか予測不能なので、諦めないでコツコツ書いて出版しておくのがいいかもしれません。
 韓国、中国も市場開拓したいのですが、KDPは対応していないようです。あれだけの市場があるのに、もったいないことです。
 
 スポーツでも、いつまでも練習だけしていても実力はつきません。練習のための練習ではなく、試合に出て自分の実力を試してみることが必要です。つまり、練習で基本をマスターしたら、試合で応用力をつける必要があります。それと同じことで、小説もある程度力がついたら、自分の作品を出版して世に出して、自分の実力を試してみることです。
 作家は、読者が育てると言われるように、読者の反応が大事です。いい作品を書けば、無名でも一躍有名作家の仲間入りができます。
 一番いいデビューの方法としては、やはりメジャーな小説新人コンクールへ入選することでしょう。シナリオの新人コンクールの場合、入選してもなかなか書かせてくれません。何故なら、テレビ局や映画会社のプロデューサーの顔は、タレント事務所の方に向いているからです。残念ながら、ドラマや映画の場合、タレントが主で、作家は二の次三の次状態です。しかし、小説の場合は作家が全てですから、編集者の顔は、作家の方に向いています。それゆえ、いい編集者に出会えれば、売れっ子作家になることも決して夢ではありません。
「成功するには、何人の人を知っているかではなく、何人の人に知られているか」です。そのためには、同人誌、電子書籍で作品を発表し、人の目に触れさせることが大事です。これでカネ儲けを狙わず、商品を陳列するショーウインドーだと割り切って書いた方がいいでしょう。確率は低いかもしれませんが、ひょっとして大手出版社の関係者が読んでくれ、目に留めてお声がかかるかもしれません。
 シナリオの場合は、映像化されなければ、ただの紙切れでしかありません。しかし、小説は何らかの形で発表していれば、作品として残ります。
 それにシナリオの場合は、購買力のある年齢の若い層が視聴者対象ですから、シナリオライターも若いライターが重宝されます。現実論として、60歳を過ぎると、仕事の依頼は激減します。しかし、小説の場合は、小説そのものが作品であり、商品ですから、それが良ければ、「容姿、年齢は問わず」というところがあります。
 私の経験上、数多く電子書籍で出版し、虎視眈々とメジャーデビューを狙うというやり方がいいのではないかと思います。練習のための練習ではなく、試合に出て自分の力を試してみることが肝心です。
 野球の格言に、「バットは振らなきゃ、何も始まらない」「二軍は野球を覚える所、一軍は野球をする所」とあります。
 電子書籍で、コツコツと書き続けて作品を発表し、メジャーデビューする日に備えましょう。
       
          <了>
 
プロフィール
http://ameblo.jp/ikusy-601/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?