見出し画像

江田島にて

4月16日のゼミの準備をしていない。本来ならば、イスラエルとイランの戦闘について議論しよう、と話題提供するべきだろう。しかし、どうせ私が一方的にしゃべっておわりになる。学生からのコメントも、批判も期待できない。

手ごろで、小難しくなく、心に残る話題はないものか? そういえば、3月の頭に広島に私用で行ってきた。その機会に江田島を訪れたので、そのことを語ろう。

名古屋・広島間は深夜の高速バス。ローンの耐乏生活なのでしょうがない。

紙屋町東から広島港までは広島電鉄で。

宇品から小用(こよう)までは瀬戸内海汽船。次の便が出るまで時間が空いたのでパン屋で朝食。

小用港からバスで低い峠を越えると第一術科学校前。「えたじま」と読むのが正しいが、「えだじま」と言う広島の人も。

商店と民家が狭い傾斜地にはりついている。戦前からそうだったのだろう。往年の海軍兵学校の生徒と職員の交遊を想像してみる。

私の解説や写真より公式ウェブサイトのパンフレットを見たほうが正確できれい。

https://www.mod.go.jp/msdf/onemss/etajimanokaijyoujieitai2024

正門で受付した後に売店の横で待機。日曜日だったので、見学者は満員。制服などを売っている店は興味深いが、外部者がひやかしてよいものか?、と戸惑う。

大講堂外側


大講堂内部の菊の御紋は日本の権威の象徴。


幹部候補生学校には歴史に関するパネルが展示されている。現役幹部は機密上の理由で展示されていないのだろう。

2人の生徒がガイドをしてくれる。幹部候補生は民間では大学院生くらいの年齢か? いや、それ以上か? 国民の命を守ってくれる人たちだから、こちらも恐縮する。アナハイムのエリートと肩をならべても恥ずかしくない凛々しさ。江田島というとなぜか「しごき」のイメージが戦前からあるが、彼らからはそれより非常にスマートな感じ。案内でも、戦前は英米と並べて三大海軍兵学校だった、と強調される。

教育参考館は文物や遺品の展示。遺族の意思で内部は撮影できない。東郷平八郎の遺髪が納められているという。軍人たちの署名の中に財部彪と加藤寛治の名前を見つけ、昭和史に思いをはせる。藤田嗣治の戦争画は私は見れてよかったが、戦後苦しめられた本人が生きていたら複雑な気持ちだろう。


戦艦大和の主砲の砲弾


アームストロング砲

帰り際にはオタフクソースのカレーソース、海軍兵学校カレー、そしてかきふりかけを買う。

錠剤千錠、いや常在戦場、とモットーが書かれた山本五十六グッズにも心ひかれたものの、敗戦と撃墜があって、縁起がよくない感じがしたのでやめておいた。私の死んだ祖父は、あれは自殺だ、と納得していたが、現在では米軍の通信傍受の優秀さのほうが注目されている。

江田島の感想は、戦前がそのまま保存されていることの驚き。被爆都市である広島とのコントラスト。もちろん、両方、保存されているのがベストだが……とモヤモヤ。

小用から呉へ。大和ミュージアムには行ったことがあるので今日は寄らない。呉から矢野駅へ。矢野駅から筆の里工房へ。筆の里工房から広島駅経由で宮島口へ。そこのホテルで1泊。

今日は宮島観光だ!


厳島神社の鳥居が見えて、期待が高まる。


風情がある街並み


厳島神社に参拝

しかし、ここで気づいたのだ。クレジットカードや保険証が入ったカードケースを失くしてしまった! 思えばそれも神のお告げだったのかも。来た道を戻ってカードケースを探すことに。楽しみにしていた宮島のあなごめしの夢はつゆと消えた。

シカさんさようなら
帰りのフェリー

宮島口に着いて、人気のないところでホテルや交通機関といった心あたりのあるところに片っ端から電話をかけ、落とし物がないか問い合わせた。
じたばたしても、見つからないものは見つからなかった。

あせってもしょうがない、と、かき小屋(島田水産さん)で昼ご飯

後日、カードケースは広島電鉄のバス車中で見つかり、3月下旬に自宅に届いた。
ご迷惑をかけた交通機関・警察の方々に深くお詫びいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?