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第16話 ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題(授業第10回)

(表紙の画像はAIによって作成された)

軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。


教科書での関連する記述

また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン会議に参加した。会議では、主力艦建造禁止をさらに5年延長することと、ワシントン海軍軍備制限条約で除外された補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量が取り決められた。当初の日本の要求のうち、補助艦の総トン数の対イギリス・アメリカ約7割は認められたものの、大型巡洋艦の対米7割は受け入れられないまま、日本政府は条約調印に踏みきった(ロンドン海軍軍備制限条約)。
これに対し、野党の立憲政友会・海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部長の反対をおしきって政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃した。政府は枢密院の同意を取りつけて、条約の批准に成功したが、1930(昭和5)年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年4月に退陣し、まもなく死亡した。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、pp. 304-305。

軍の最高指揮権である統帥権は天皇に属し、内閣が管掌する一般国務から独立し、その発動には参謀総長・海軍軍令部長が直接参与した。憲法解釈上の通説では、兵力量の決定は憲法第12条の編成大権の問題で、内閣の輔弼事項であり、第11条の統帥大権とは別であった。しかし、帝国国防方針では、海軍軍令部が国防に要する兵力に責任をもつべきであるとされた。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 305、n. 2。

さすが教科書! 重要な事件だけあって、展開も、背景も、詳しく書かれている。

ところで、「ロンドン海軍軍備制限条約」という略称はどこから来たのだろう? しっかり「削減」したのだから、海軍軍備制限削減条約または海軍軍縮条約でよいと思うのだが。日本語訳では「千九百三十年ロンドン海軍条約」だから、それとも違う。ここをあいまいにすると、核兵器のSALT(戦略兵器制限条約)とSTART(戦略兵器削減条約)は、どちらでもいいことになる。「軍縮」という忌まわしい言葉は使いたくないのかな?

対米7割

海軍記者といえば伊藤正徳。神保町の書泉グランデで陳列された著書を見かけた気がする。今はどうなったのだろう。

ロンドン海軍会議の前年、来るべき会議に臨んで、伊藤は詳しく軍縮について解説した(『軍縮?』、春陽堂、1929年)。そこにはアメリカ合衆国に対して7割の兵力が必要だと縷々、つづられている。理由については、皆さんが読んで確かめてもらいたい。

伊藤正徳は海軍の拡声器だった。海軍は対米7割を宣伝して、交渉を妨害しようとしたのだろう。海軍といえども官僚組織なので、組織防衛に必死だった。1922年のワシントン軍備制限条約が組織拡大を阻んだのでトラウマになっていた。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_1_04.pdf

交渉の代表たちに本国から与えられる命令を「訓令」という。英語ではインストラクション。補助艦全体でも、20センチ(8インチ)砲搭載大型巡洋艦に限っても、対米7割が命じられている。「三 会議招請及び非公式交渉関係」(外務省編、『日本外交文書 一九三〇年ロンドン海軍会議 上』、1983年、304-310ページ)に見える。

納得しない海軍

日本の全権は元総理大臣の若槻礼次郎、海軍大臣の財部彪(たけし)、駐英大使の松平恒雄、そして駐ベルギー大使の永井松三だ。他国との交渉は職業外交官だった松平が担当した。会津藩主松平容保の子息で、戦後は初代の参議院議長になった。

日本代表団は対米7割の一本やりだった。愚直で誠実ではある。エリートぞろいの高級官僚は自己の正しさを疑わないから、至誠天に通ず、相手も分かってくれる、と信じこむ。しかし、外交の常識は「足して二で割る」なので、結局、討ち死にして悲憤慷慨することになる。

アメリカ合衆国の全権と松平が非公式に交渉して、松平・リード妥協案と呼ばれる日米妥協案ができた。対米7割、すなわち0.7にわずかに届かない0.6975だった。精いっぱい努力した結果だったと私も考える。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_2_02.pdf

これでよいか、と代表団は東京に承認を求めた。これを外交用語で請訓という。資料では、「四 会議の経過」、外務省編、『日本外交文書 一九三〇年ロンドン海軍会議 下』、130-132ページ。「何分ノ御回訓アランコトヲ希望ス」に見える。

請訓を本国が受け取ると大騒ぎになった。各国の新聞は内容を伝え、海軍は反対を表明した。

ここで、日本史教科書に書いてあった統帥権の話になる。内閣側は兵力は編成の事項なので、海軍の同意はいらないとする。代表団には財部海軍大臣がいるので、専門的観点にはしっかり配慮した。

海軍側は作戦の責任者である軍令部長の加藤寛治が先頭に立って反対した。兵力をどうするかは統帥権に含まれると言う。彼は帷幄上奏までしようとしたが果たせなかった。統帥権を有する天皇を手中に収めて、内閣を屈伏させようという魂胆だった。

こうした海軍側の反発を抑え、政府は松平・リード妥協案を承認した。ロンドン海軍条約は4月22日に署名された。

青木得三の『海軍縮少の崩壊過程』が上の展開を分かりやすく整理している。概括的対米7割はほぼ達成していると言ってよいと思うが、20センチ(8インチ)砲搭載大型巡洋艦については7割に遠く及ばなかった。

統帥権干犯問題

これで終わりではなかった。署名から2、3日後の4月25日、衆議院で野党党首の犬養毅が、対米7割に不足したら国防はおぼつかない、と政府を攻撃した(第58回帝国議会衆議院本会議第3号、昭和5年4月25日、発言番号008、010)。

そのあとに、政友会のニューリーダー鳩山一郎が統帥権干犯だと二の矢を継いだ(第58回帝国議会衆議院本会議第3号、昭和5年4月25日、発言番号044)。

それから半年後、浜口雄幸総理大臣は右翼の青年に狙撃された。時代の人気は明らかに軍部と右翼の側にあった。

軍部は必死だったが、歴史の後知恵では対米7割とか、そんなもので太平洋戦争に勝てたわけでない。一撃必殺の戦争観を一億総懺悔しなければならなかった。

まとめ

私が大学院生のころ、幣原喜重郎の自伝を読んでいた。ロンドン会議のときの外相だ。大正生まれの祖父がそれを見て、男、と評した。戦前の協調外交よりも戦後の総理時代のことを評したのかもしれない、と思った。後日、若槻礼次郎の自伝を読んでいた。祖父は、汚い、というようなことを吐き捨てるように言った。二人の違いが分からない私は悩んでしまった。今でも分からない。世間の評価とは理解できないものだ。

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