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「特集 年少者日本語教育の現在地と展望」

 『早稲田日本語教育学』は、早稲田大学大学院日本語教育研究科(以下、日研)の紀要ですが、先月(2024年6月)、その最新号、36号が刊行されました。その号の「特集」が「年少者日本語教育の現在地と展望」

 私が書いた「緒言 日研の年少者日本語教育研究22年」のほか、私の研究室で学んだゼミ生・修了生が書いた14本の論考が収録されています。そのすべては、以下のURLから無料で閲読可能です。

https://waseda.app.box.com/s/rrjv87r8hoeivlo9goilsk4ws2n9alu7

 この「特集」で何が書かれているのか、「緒言」を少し抜粋してみよう。

本特集の趣旨

 私が日研で研究を始めた22年前、その頃、子どもに焦点化した日本語教育の研究領域はまだそれほど注目されていなかった。そこで、研究室の名称を「年少者日本語教育研究室」として、本格的に子どもに関する研究を始めた。その後、この研究室で修士論文、博士論文を書いて、社会に出て活躍する修了生は100名余りとなった。(中略)

 そこで、日研の本研究室で学び、現在、社会で活躍する修了生に年少者日本語教育に関する論考を書いてもらうことで特集を組もうと考え、修了生に呼びかけた。つまり、日研で学んだ修了生が日研で学んだことをもとに、今社会の中で、どのような問題意識を持って活躍をしているのか、またどのような実践研究を継続しているのか、今後私たちが取り組むべき課題はどのようなことがあると考えているのかを表明してもらおうと考えたのである。そのことにより、日研で年少者日本語教育を学んだ修了生が肌感覚として考える現代の年少者日本語教育の現状と課題、つまり「現在地」を語ることになり、かつ、今後の展望を語ることになるのではないか。

 このような経緯を経て寄せられた14本の論考をもとに、本特集を編集した。これらの論考はそれぞれが独立した論考であるが、興味深いことに、それぞれの論考のテーマや実践の連関性や問題意識の共有性も見られる。そこで、ここでは、いくつかのテーマにまとめながら、ラインアップを見てみよう。(中略)

本特集のラインアップ

 年少者日本語教育の実践者に共通するテーマは、子どもの「ことばの学び」「ことばの力」「ことばの実践」をどう捉えるかである。この場合の子どもは複数言語環境で成長する子どもである。また「ことば」は複数言語が混然一体となったものであり、コミュニケーション全体と関わるものと捉えられる。もちろん、これらの観点は別個に存在するものではなく、相互に強く連関し重なり合うものであるが、そのことを本特集の各執筆者が共に理解し共有している点は、この特集の特徴と言える点でもあろう。

⑴学校での実践をもとに。
 これまでも年少者日本語教育の実践研究で最も多いのが、執筆者自身が実践にどう関わったのかという視点から行われる研究である。本特集でも、その傾向は見られた。特に、学校での実践をもとに考察したのは小林美希、大森麻紀、北村名美、劉碩の論考である。小林はJSL高校生への実践をもとに生徒のリテラシーを多面的に捉えること、またそのリテラシーが生徒の成長とともに捉え方が変化していくことを主張し、新たな実践の構想を論じている。大森は、小学校のJSL児童への実践をもとに子どもがことばを獲得しながら他者との関係を構築していく過程、また子どもの気持ちとことばが結びついていく様子を論じ、他者との関わりを学べる新たな実践を提案している。北村は、親が国際結婚している上、複数国を移動してきた経験のあるJSL中学生と対話を重ねる実践を行った。その実践を通じて、生徒が自身の中にある多様な言語文化資源と向き合い、「ことばの学び」と「ことばの力」を獲得し、生き方を模索していくことの重要性を論じている。劉は中国語を母語とするJSL高校生に中国語と日本語を使用して行う実践の中で生徒が指導の場で二つの言語を微妙に使い分けながら学ぼうとする様子に注目し、メトロリンガリズムに基づいた日本語教育実践の可能性について論じている。
 これらの論考で注目されるのは、子どもたちを日本社会に単に同化させるだけで良いとする実践と捉えられていない点であり、それよりも、これまでの移動の生活や複数言語環境への対応や「ことばの力」を発展させながらどう生きるかに着目した実践を構想している点である。また、これらの論考は、学校現場において学ぶ子どもたちを中心に据えた実践研究であったが、当然ながら、子どもたちの生活は家庭や家族とも密接に関連している。

⑵親の視点を踏まえた実践研究。
 子どもを育てる親の視点を踏まえた実践研究は、尾関史、太田裕子、中野千野、深澤伸子の論考である。尾関は日本から海外へ移住した自身の経験をもとに、研究者である移民女性がそれまでの環境とは異なる複言語環境で家族を作り、再び問題意識を更新し、自身の課題として親子のことばの実践研究に向かう軌跡を語る。太田は日本に来た外国人女性のライフストーリーをもとに、日本語を子どもと共に学びながら子育てすることを「ことばの実践」と捉え、メディエーション行為の視点から分析した。中野は複言語の子どもを主人公とする絵本の「読み聞かせ実践」を国内外で展開し、参加者の「まなざし」の変容と再構築のプロセスを分析し、新しい実践の可能性を提示した。深澤はタイのバンコクで長期に渡り行ってきた、親子で参加する「複言語・複文化ワークショップ実践」を振り返り、参加者と運営者が何を学び、どのように実践が変化してきたのかを論じた。
 これらの論考で注目されるのは、複数言語環境で育つ子どもの成長には、家族、特に母親の存在が大きく影響しているということ、また、その母親自身は移動しながら子育てをし、自身も複数言語環境の中で変容していくこと、さらに、その親子も含めて周りからのさまざまな「まなざし」に晒されながら自身の社会認識も変容しながら再構成されていくということが明らかになった点である。

⑶「ことばの力」「ことばの学び」を支える。
 さらに、複数言語環境で成長する子どもに関わる実践は学校や家庭だけではなく多様に展開されている。その例を、飯野令子、村上淳子、河上加苗が論じている。飯野は外国籍居住者が少ない、いわゆる「外国人散在地域」で自身が運営する日本語教室の現状と課題を提示している。その中で、多様な支援者と子どもの間の多様な関係性が生まれ、子どもの持つ「ことばの力」が発揮され、新たな「ことばの実践」が生まれることについて論じている。村上は、この「外国人散在地域」の子どもたちの日本語教育の体制をどう構築するかというテーマについて論じ、日研が2008年から実践してきた三重県の「鈴鹿モデル」の応用可能性を論じた。河上は、この「鈴鹿モデル」と同時期に展開された「目黒モデル」の中で日本語を教える人材をどのように育成するのかという課題を立て、子どもを捉える複層的な眼の育成が重要であることを主張する。
 これらの論考は、学校や家庭外の実践という意味だけではなく、「教える」「教えられる」という関係性を超えて子どもの「ことばの力」「ことばの学び」をどう支えていくのかという課題を提示している。「鈴鹿モデル」「目黒モデル」は日研が提示した、教育委員会と大学院が協働的研究を行う先駆的なモデルであり、今後のさらなる発展が期待される。

⑷新たな「ことばの実践」の拡大
 子どもの「ことばの実践」の地平はさらに拡大している。その可能性を提示しているユニークで萌芽的研究を、森沢小百合、本間祥子、張櫻が提示している。複数言語環境で成長する子どもの課題は、子どもだけの課題ではなく、社会の中で捉えられるべきであろう。森沢は、大学学部学生を対象にした授業で、「移動する子ども」のライフストーリーを学生が読み、語り手の「ことばの力」に内包された思いや認識と学生自身の経験と照らし合わせながら学ぶ、ライフストーリーを利用した授業の有用性について考察している。本間は、子どもの持つ「美的感性、美的反応を引き起こす能力」(エステティック・リテラシー)に注目し、従来の「ことばの力」を捉え直し、新たな「ことばの実践」の可能性を考察している。最後の張の論考は、日本で生まれ、日本で教育を受けた後、9歳で祖国に帰国した自身の体験をもとに、「移動する子ども」という経験と記憶が成人した現在の生活まで影響を与えている現実を提示し、子どもの「ことばの学び」の意味を問うている。
 これらの論考は、机上で日本語を学ぶ実践以外の多様な学びの可能性を論じており、今後の年少者日本語教育の実践研究の方向性を考える上で極めて示唆的な内容となっている。

本特集から何を展望するか。

 本特集の論考は、日研で年少者日本語教育を学んだ修了生が、複数言語環境で日本語を学び成長する子どもに関わる現状から、新たな問題意識を持ってまとめた論考であった。では、本特集の意義と今後への展望を考えてみよう。

 日本語教育学会においても、これまで年少者日本語教育の課題の整理や研究の方向性を議論することがあった。例えば、私が日研で年少者日本語教育の研究をスタートさせた頃、学会で「年少者日本語教育学の構築に向けて」と題したパネルセッションを企画した(川上他2004)。そこで提示したことは、「年少者日本語教育学」の問題領域として、①言語発達、言語習得、言語教育理論、②教材、教授法、カリキュラム、③教育現場、地域、学校の連携、④教育行政、教育支援、教員養成の4つの領域があること、そしてそれらの領域を俯瞰しながら実践研究を進めることの重要性であった。
 このパネルセッションで、1990年代のJSL児童生徒の急増と子どもたちの学力保障の観点から、「JSLカリキュラム」(文部省/文部科学省)の開発に関わった、私を含むパネリストたちが課題を整理して研究を進めることを主張したことは意味のあることであった。しかし、今振り返ってみると、20年前のパネルセッションの議論と本特集の論考の間には大きな隔たりがあることも明らかである。20年前のパネルセッションで整理した「年少者日本語教育学」の4つの問題領域は今なお研究を進める上で必要な領域であることは確かであるが、教師・支援者側からのまなざし、つまり大人側から見た課題設定であり、領域設定であった。また、年少者「日本語」教育という日本語を中心にした実践研究であった。20年前も、私たちは子どもをまるごと捉え、全人的発達を願って実践を考えてきたし、そのことは今も変わらないが、今回の特集の論考を見て気づくのは、大人側のまなざしから、子どもの主体性、子どもの主観的意味世界、実践者の主観、当事者意識へ視点が移行している点である。
 それぞれの論考は、複言語主義的な「ことばの力」の捉え方、構成主義的な観点から子どもや親、教師の主観的な意識やまなざしを捉える見方、子どもだけではなく親や周りの他者との動態的かつ相互作用的・相互主体的関係性の中で実践を捉える視点などから考察されていた。つまり、端的に言えば、本特集の論考からわかるのは、この20年間で年少者日本語教育学のパラダイム転換が起こっているということである。それが可能となったのは、日研での年少者日本語教育の実践を踏まえた専門家養成教育の成果があったからであり(川上他、2021)、修了生たちの継続的な実践の積み重ねがあったからであろう。このパラダイム転換を提示したこと、同時に、今後の研究の課題と方向性を具体的に示した点が本特集の意義である。

 さらに前述の2004年のパネルセッションでは十分に議論されていない領域があったことも指摘しておきたい。それは、海外で日本語を学ぶ子どもたちへの日本語教育の研究である。海外の日本語学習者数の半数以上が初等中等教育レベルの子どもたちであることは、以前より知られており、私の研究室でも研究を行ってきた(川上編、2009)。本特集で尾関と深澤が言及しているように、海外で日本語を学ぶ子どもたちは多様化している。それらの子どもへの日本語教育をJFLや継承語教育と分けて考えることは必ずしも有効とは言えない。子どもたちの多様性も踏まえた上で、今後の年少者日本語教育を考えることが大切であろう。

 では、最後に、年少者日本語教育の、さらなる今後の展開を述べておきたい。そのヒントは、本特集の最後に配した張櫻の論考にある。張は、中国出身の両親のもと日本で生まれ、小学校3年生まで日本語で教育を受けた後、上海に移動し、上海語と標準語(中国語)に接しながら成長し、周りの「まなざし」の中でアイデンティティの形成と変容を経験したことから、「日本帰り」の子どもの「感情」「感覚」「情念」の世界(川上2021)こそが、彼らの生のリアリティであると述べている。その張が日研で学び、修了後に中国で就職した会社の指示で日本の会社に転任するために再び来日してきた。この事例を考えるためには、21世紀を生きる人々の生を理解するための「移動とことば」というバイフォーカル(bifocal)な視点が必要である(川上2018)。さらに、子どもの「感情」「感覚」「情念」の世界は、川上(2023)が論じるように、脳科学における情動の研究成果と密接に関わる。つまり、幼少期・成長期の言語間、空間、言語教育カテゴリー間の移動と複数言語接触が脳の発達に影響し、脳―身体―環境のダイナミクスの中で、子ども自身の適応的行動、アイデンティティ形成、子どもの生き方、そして情動の力で紡ぎ出される「自己物語」を生み出す可能性があるのである。張のような経験を持つ人のライフストーリーを理解するには情動の視点が外せないであろう。

   以上のように、移動の時代の21世紀で生きる子どもの「ことばの学び」「ことばの実践」研究は、今後、情動の視点も含めた「移動する子ども」学(川上2021)へ進むことが必然となるであろう。本特集がこれからの「年少者日本語教育学」研究のマイルストーンになれば幸いである。

参考文献

川上郁雄(編)(2009)『海の向こうの「移動する子どもたち」と日本語教育―動態性の年少者日本語教育学』明石書店。
川上郁雄(2018)「序章 なぜ「移動とことば」なのか」川上郁雄・三宅和子・岩﨑典子編 『移動とことば』くろしお出版、pp.1-14。
川上郁雄(2021)『「移動する子ども」学』くろしお出版。
川上郁雄(2023)「情動の視点から見る「移動する子ども」学」『ジャーナル 「移動する子どもたち」―ことばの教育を創発する』14、pp.66-80。
川上郁雄・石井恵理子・池上摩希子・齋藤ひろみ・野山広(2004)「パネルセッション 年少者日本語教育学の構築へ向けて―「日本語指導が必要な子どもたち」を問い直す」『日本語教育学会春季大会予稿集』pp.273-284。
川上郁雄・石井恵理子・池上摩希子(2021)「鼎談:子どもと日本語教育―専門 家の養成・研修を実践から振り返る」『早稲田日本語教育学』第30号、pp.1-15。


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