「管理職は愉快です」復刻版 第7回
第2章 春~基本の型を身につける
1節 継続する①
目に見えて、ものごとが動き始める「春」です。
「春」は、「冬」に培った基礎力を発揮し、志を追い求める季節のように思われますが、まだまだ基礎固めを継続しなければなりません。
「春」は、出会いの季節です。
さまざまな人やもの、ことに出会い、まわりの人やもの、こと、すべてから基本の型を身につける季節です。
師を得て、師から基本の型を学ぶことが最もよいのですが、必ずしも師を得られるとは限りません。
そのときには、前任者を師として学び、前任者の志を継ぐことを心がけるとよいでしょう。
では、「春」の楽しみ方を伝授しましょう。
【極意3】継続する
朝夕の習慣を続けていたら、さまざまな愉快なことに出会うことができました。
例えば、イエローハットの創業者である鍵山秀三郎さんの言葉に共鳴する楽しさを体験することができました。
鍵山さんは「凡事徹底」を大事にしています。
鍵山さんの言葉には大変励まされました。
「いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました」との言葉は、朝の習慣を9年間弱続けた経験から、実感できました。
一方で、「十年偉大なり、二十年おそるべし、三十年歴史なる」という言葉からは、自分はまだまだ未熟なだあと思い知らされました。
《心得13》毀誉褒貶は他人の主張
市立L高校での自転車そろえ
市立L高校での自転車そろえは大変でした。
自転車通学者が90%を超える学校でしたから、900台以上の自転車をそろえるには3時間以上かかりました。
しかし、自分でやると決めたことですから、誰にも文句は言えません。
「大変なことを始めちゃったな」
「いつまで続けられるかな」
「でも、自転車がぴしっと並んでいると気持ちいい」
「今日は、先生が一人窓越しに挨拶してくれたよ」
「生徒も少しずつ教頭を認識してくれるようになったみたいだ」
「でも、ほとんどの生徒や先生方は関心がなさそうだな」
「関心を持ってもらいたくて始めたんじゃないぞ」
「誰かに認めてもらおうなんてさもしい考えだ」
などと、心が揺れながらの自転車そろえでした。
「毀誉褒貶は他人の主張、行藏は我に存す。我に関せず、我に関わらず」という勝海舟の言葉を知ったのが、この頃です。
簡単には海舟の心境になれず、海舟の言葉はそうありたいと自分を戒めた言葉だったかもしれないと思ったり、そんなふうに考えるのは小人の勘ぐりだと反省したり、心を揺らし続けました。
それでも少しずつ「毀誉褒貶は他人の主張」と思えるようになり、日々の愉快度が上がっていきました。
《心得14》人間万事塞翁が馬
市立L高校で自転車そろえを続けていたら、大きな転換点を迎えることになりました。
突然のことでした。
職員会議で、一番年配の体育教師がこう切り出したのです。
「教頭が毎日、自転車の整理をしているのを皆さんも知っているだろう。このまま教頭にやってもらっていてはいけないと思う。我々も手伝うべきだし、生徒たちにも手伝わせるべきだと思うが、どうだろう。」
この一言で、生活委員の生徒と全教職員が分担して、毎朝、自転車そろえを指導する仕組みが作られました。
各学年の自転車置き場に生活委員と教職員が2名ずつ配置され、登校する生徒たちに声をかけながら自転車をそろえることになったのです。
生徒が自転車をそろえているせいか、他の生徒も自分から自転車をそろえるようになり、自転車置き場がきれいになりました。
同時に、遅刻する生徒も減っていきました。
自分で自分を律する姿勢が広まっていったようです。
この自分で自分を律する自律心をいかに育てるかが大事なのですが、他律にしてしまうことが多いのが学校の現状ではないでしょうか。
他律から自律へと導く指導法を確立する必要があります。
さて、市立L高校での自転車そろえは教職員の主体性と生徒の自律を促すという予想外の成果を生みましたが、私は習慣の一つを奪われる形になりました。
しかし、「禍福はあざなえる縄のごとし」ですので、生徒や教職員が教室に戻った後、自転車をぴしっと並べ直す習慣を続けていました。
生徒や教職員がいつまでも変わらずに自転車並べをしてくれるとは限りませんから。
県立T高校での自転車そろえ
県立T高校の校長となって、自転車そろえをしていたときのことです。
校長が自転車そろえを始めると、教頭と業務主任さん2人の計3人が手伝ってくれるようになりました。
自転車置き場が昇降口から見えるところにありますので、昇降口で登校してくる生徒たちに「おはよう」と声かけをしている教員たちの目に止まります。
手伝ってくれる教員も増えていきました。
そんなとき、ある学年主任から「自分たちがやるので、校長が自転車そろえをするのはやめてほしい」と言われました。
教員たちが自分たちでやろうとするのはいいことですから、異存はありません。
ただ、彼らが自転車そろえを終えた後で、内緒でぴしっと並べ直していました。
すると、曜日ごとに分担した教員がしばらく自転車そろえに来ていましたが、次第に来る人数が減り、いつの間にか学年の教員はほとんど来なくなってしまったのです。
結局、業務主任さんと教頭と数人の教員だけになりました。
それでもいつもの朝の習慣をいつもどおりに続けました。
うれしいこともありました。
業務主任さんから「よく学校に来る業者の方からこんなことを言われたんです」と報告を受けました。
「『最近、L高が変わった気がしていたけれど、やっとどうしてそう感じたのかがわかりました。自転車がぴしっと並んでいるからです。だから、学校がさわやかに見えたんだと思います』と言われたんです。
うれしかったです。
校長先生が自転車そろえを始めたとき、業務の仕事が増えたと思ったけれど、今はこんなに楽しいことはありません。
こんな経験は初めてです。」
心が通じる教職員と一緒に自転車そろえをすることで、毎日が幸せでした。
自転車そろえについては、誰にも期待しないことにしていました。
単なる私の習慣ですので、他の人がどう反応しようが気にしません。
県立V高校での自転車そろえ
自転車そろえは、県立V高校の校長になってからも毎日続けました。
V高校では、体育の教員が手伝ってくれました。
V高校長4年目のときには、教務主任が初任者研修の一環として自転車そろえを取り入れてくれました。
お陰で、自転車をそろえながら若い教員といろいろなおしゃべりをすることができました。
楽しいひとときでした。
近況を聞いたり、昔話をしたり、普段できない雑談をたくさんすることができました。
実は、雑談のなかに知恵や宝が隠れているのですが、管理職と教職員とが雑談する機会が少ないので、もったいないと思っています。
学校のなかに雑談をする余裕を取り戻したいものです。
してもらったことは大きな財産
T高校でもV高校でも、1年生が一人だけしばらく自転車そろえを手伝ってくれたことがありました。
自転車を置いて教室に向かったと思ったら、戻ってきて「いつもありがとうございます」と頭を下げていった2年生もいました。
生徒の心に何かしら響くものがあったとしたら、習慣として続けることにも意味があるかもしれません。
してもらったことは、そのことに本人が気づかなかったとしても、してもらった本人にとって大きな財産です。
生徒として在校していた3年間、毎日自転車をそろえてもらっていた事実は、記憶の片隅に種として残ります。
その種は、何かのきっかけで芽を出すかもしれません。
人の親になったときや人の上に立つことになったときに思い出して、「なぜ校長は毎日自転車そろえをしていたのだろう」と考えるかもしれません。
してもらったことのない人には思い出す種がありません。
芽を出さない種が多いかもしれませんが、たくさんの種を植える作業は愉快なものです。
自転車そろえへの反応は、各校でさまざまでした。
「人間万事塞翁が馬」ですから、一喜一憂せず、種を植える習慣として続けました。
この習慣のお陰で愉快に過ごすことができたように思います。
(初出 2015年4月14日「内外教育」)
解説
春夏秋冬という言葉があるせいか、四季の始まりは「春」だと思われています。
私もそう思ってきました。
ところが、管理職になって、四季の始まりは「冬」ではないかと思うようになりました。
冬の間に実力を磨き、芽が出る土壌を造っておかないと、春になっても芽は出ません。春になり、種を蒔く気力も湧きません。
不遇な冬の時代に蓄えたものがあったから、春にそれを活かすことができるのです。
冬の間は、「こんなことをして何になるんだろう」って思うこともありますが、やるべきことをコツコツとやっておくと良いようです。
年齢を重ね、「冬」の大事さがわかってきましたが、若い頃はわかりませんでした。
私は、冬が苦手でした。
今でも、冬は苦手です。
でも、苦手な冬の間に地道に地力をつけようと思っています。
仕事人生を終えた今、私は「冬」にいるのかもしれません。
そうだとしたら、地道に力をつける時期にいるのですから、じっくりと自分に書きに努めることにしましょう。
【極意3】継続する
自転車ならべは、教頭、校長を通じて、毎日実行し続けました。
若い頃、あれほど「継続」が苦手だったのに、管理職になってできるようになったのには、自分でも驚いています。
なぜ、私は継続することができるようになったのでしょうか。
答えは、簡単です。
当時の私には、教頭としてできることがなかったからです。
教諭時代に、教務主任や学年主任、進路指導主事、生徒指導主任などといった主任級の職務を担ったことがありませんでしたから、教頭として彼らを指導したり、手本になったりすることができませんでした。
教頭の私に何ができるのか、と悩みました。
できることをやるしかありませんので、できることを始めることにしました。
その一つが、自転車ならべでした。
「私には、誰にでもできることしかできない。だったら、誰にでもできることをずっと継続してやり続けてみよう」と思ったのです。
鍵山秀三郎さんの「凡事徹底」という言葉に出会ったことが、自転車ならべを継続する後押しになりました。
「継続は力なり」と言われます。
でも、それは結果論です。
継続が成果を生むかどうかはわかりません。
成果を求めず、「継続する他にできることがないから継続する」という気持ちで始めました。
成果を求めたら、継続することはできなかったと思っています。
《心得13》毀誉褒貶は他人の主張
当時、「誰でもできる平凡なことを、非凡にやり続けるしかしかない」「凡事徹底の他に自分にできることはない」と思っていました。
ですから、「毀誉褒貶は他人の主張」という言葉が身に染みました。
だって、他にできることがないのですから、けなされても、ほめられても、することは同じです。
他人がどう言おうが、やることを変えられないのですから、他人の言動は気にしないことにしました。
それが、私流の「毀誉褒貶は他人の主張」です。
《心得14》人間万事塞翁が馬
「凡事徹底」を継続していると、期待していなくても、成果が出てきます。
しかし、成果を喜んでいると、しっぺ返しに遭います。
長い間「継続」していると、さまざまなことに遭遇し、「禍福はあざなえる縄のごとし」を体験することができます。
このことが、継続することの一番の楽しさだと思っています。
凡事を継続していると、最初は誰も気づきません。
そのうち、気づく人が出てきて、ほめてくれます。
ほめてくれる人が増えると、必ずけなす人が現れます。
一気に盛り上がりますが、「人の噂も七十五日」ですから、次第に話題に上らなくなります。
そうして、私が転勤すると、継承してくれる人もいますが、10年もすると消えてなくなります。
私が継続してきた凡事の多くは、私が実行した場所では消えてなくなってしまったようです。
でも、別の場所で継続してくれる人がいるかもしれません。
そう思うので、「人間万事塞翁が馬」という言葉がとても好きです。
してもらったことは大きな財産
「してもらったことは大きな財産」と考えるようになったのがいつ頃からだったかは、覚えていません。
自転車ならべという些細なことでも、高校在学中の3年間、ずっと自転車をならべてもらっていたら、それは大きな財産だと思っています。
自転車ならべがどんな財産になるかどうかは、受け取った人が決めることです。
自転車ならべをした私には、決めることはできません。
私にできることは、自転車ならべという種を植えることだけです。
その種を育てるのは、種を受け取った生徒たちや教職員たちです。
彼らは、種をどう育て、どんな実を受け取るのでしょうか。
大部分の生徒や教職員は種の存在に気がつかないかもしれません。
たった一人でも、種の存在に気づき、種を育て、実を受け取ってくれたら、私は満足です。
種は、1万粒蒔いて、1粒でも育てば良いと、私は思っています。
種が実になった姿を見ることはありません。
それでも、種を蒔き続けたいと思って、教育に携わってきました。
教育とは贈与だと思って、これまでやってきました。
そんな思いが「してもらったことは大きな財産」という言葉には込められています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?