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発信すると世界が広がる

れんこんnote 013

私の発信履歴

 私が発信を始めたのは、教諭のときです。
 学級通信「ひとりぼっち」が始まりです。学級通信に挑戦し、3年目で1年間毎日発行することができました。男子校に異動したときには、「うちでそんなことをやった教師はいない」と言われて断念し、でも、どうしてもやりたくて2度目の担任のときにやり遂げました。
 学級担任でないときには「数学通信」を出したこともあります。

 その後、少しブランクがあり、教頭のときに地方紙にコラム「教頭の四季」を書き、教育委員会事務局の人事担当主幹のときには担当者向けの「じんたん通信」を出しました。その頃、私信「れんこん」をメルマガとして知人向けに発行し始め、現在も継続しています。

 校長時代には、生徒たちに「ほめ励ます葉書」を贈り続け、7年間で2万通以上贈りました。この頃、ブログ「はがきのおくりもの」を始めましたが、現在は執筆していません。でも、閉鎖していないので、今でも見ることができます。

 教育長時代には、内外教育に「管理職は愉快です」を47回連載しました。
 現在も、新聞や雑誌に複数の方々と交代で連載しています。

 そして、最近、「れんこんnote」を始めました。

 これが、私の発信履歴です。

発信する理由

 発信を始めたときには、それぞれに理由がありました。

 学級通信は、生徒たち同士がもっと知り合うようにしたかったので始めました。
 意外と生徒たちはクラスの人たちが何を考え、何をしているかを知りません。学生時代に少しでも多くの人と知り合って、一人でも友人やつながる人を得ることができたら、人生が豊かになるに違いないと思いました。
 その手助けとして、学級通信を始めました。ですから、クラスにノートを回して、生徒たちに好きなことを書いてもらい、それを学級通信に載せていました。

 私信「れんこん」を始めたのは、知人に頼まれたからです。新聞コラム「教頭の四季」は原稿料なしでしたので、葉書に印刷して知人に送っていました。「教頭の四季」が終了した後、葉書の送付も終わりにすると伝えたら、続けてくれと頼まれたのです。そうして始めた私信が、22年も続くとは思っていませんでした。すでに1750号ほど発行しています。

 ブログ「はがきのおくりもの」は、ほめ励ます葉書の存在を知った教え子から発信すべきと勧められて始めました。全部で2,224の記事を発信しました。

 内外教育の連載「管理職は愉快です」は、管理職志望者の減少を憂い、管理職は愉快だよと伝えたくて始めました。

 この「れんこんnote」は、若い指導主事からお願いされて始めました。

 というわけで、当初はさまざまな意図や理由から始めました。しかし、続けていくうちに意図や理由、意味などは考えなくなりました。
 単なる習慣となったのです。

 「れんこんnote」投稿も、いずれ単なる習慣になると思っています。

発信はささやかな贈与

 当初は発信の理由がありましたが、現在は発信の意味を考えないことにしています。
 意味を考えると、疲れます。深く考えると、意味がないように思えてきます。ですから、発信の意味を考えないことにしたのです。
 続けるためには、意味を考えなくてすむ「習慣」にしてしまうのが一番です。

 発信に対する反応の有無も、気にしないことにしています。
 反応はまれにしかありません。でも、読んでくれている人はそれなりにいるようです。
 「スキ」の反応やお便りがあると、飛び上がるほどうれしいですが、なくても読んでくれている人がいるようなので、「それでいい」と満足しています。

 見返りは求めないことにしています。
 見返りを求める気持ちがないとは言い切れませんが、見返りは求めないと決めています。

 発信は、私なりのささやかな贈与である、と考えることにしています。

 私たちは、様々な人からほとんどのものを贈与してもらって、こうして成長し、生きています。
 ですから、私も、関わることのできる人たちに、できる限り贈与を続けていこうと思っています。

発信すると世界が広がる

 見返りは求めませんが、発信を続けていると思いもよらないことに出会います。

 1つは、自分の内面が広く豊かになっていくことです。

 アウトプットしていると、インプットへの渇望が大きくなります。

 私の頭や心の許容量は少ないのですが、発信してアウトプットし続けていると、頭や心がどんどんスカスカ、空っぽになっていきます。許容量が少ないうえにスカスカなのですから、頭や心が飢えてくるのです。
 そうすると、本を読んだり、人と会ったりして(旅に出るのは苦手なので、あまりしません)、インプットを増やそうとし始めるのです。
 そうしているうちに、許容量の少ない私でも、内面が広く豊かになっていくような気がしています。

 もう1つは、まれに世界が広がる大きな贈与をいただく幸運に恵まれることです。

 私の人生の分かれ道の多くは、発信でつながった方からのお誘いによるものです。
 別世界へと誘ってくださるのは、強い結びつきの方ではなく、弱い結びつきの別世界に住む方です。
 しかも、弱い結びつきの別世界に住む方は、発信によりつながった方が多いのです。

 「発信」はあくまで贈与で、結果として起こった「世界が広がる出来事」もまた贈与であると考えています。この2つの贈与に因果関係はありません。

 因果関係はないけれども、発信すると世界は広がるのです。
 これって、あまり論理的ではない言い方ですね。

追伸

 発信の仕方って、文章を書いて発信するだけではありません。

 毎日「好きだよ」「かわいいよ」と妻に言い続けることも、発信の1つです。
 「ありがとう」「ごめんなさい」を忘れないことも、発信の1つです。
 声をかけられたら、すぐに「はい」と返事をすることも、発信の1つです。

 笑顔を絶やさないことも、発信の1つです。
 心温まる所作やたたずまいも、発信の1つです。

 相手に届くものはすべて発信なのだと、私は思っています。
 そして、相手に届いたものすべてが贈与なのだと、私は考えています。

 ところで、発信したものと受信したものは同じではありません。
 発信した者が込めた意味を、受信した者は自分なりに理解して受け取ります。
 発信した者が意味を考えていなくても、受信した者が意味を受け取ることもあります。

 発信した者が贈与だと思うかどうかに関係なく、受け取った者が贈与だと思えば、それは贈与です。受け取る者がいなければ、贈与にはなりません。
 贈与とは、差し出した者が決めることではなく、受け取る者が決めることなのです。

 ということは、「れんこんnote」を発信しただけでは、贈与になっていないということです。果たして「れんこんnote」の発信は、贈与になるのでしょうか。

 そんなことを考えながら、「れんこんnote」を綴っています。

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