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2023/08/15:今日も視界良好ヘイヨー

暑ーつ(アース)ミュージックアンドエコロジーな日々


男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
オタクが行くコミケというものを、そこまでオタクではござらん拙者も行ってみんとて行くなり。


間違えた!これ半年前の画像だ!今年の写真ねえや!

そう、こんなこと言っておきながらコミケに行くのは半年ぶり2回目だったりする。今回も前回も、一番の目的はここ2年でいちばんハマっているVTuberの同人誌を買うことだったりする。

ばっちり買えた。
ついでに、応援してる配信者さんが出してるグッズ達や、最近よく聴いているラジオのBL本も買えた。

ホントは推しのR-18本も出ていたようだが、訪れてた頃には売り切れてた。
仮に残っていたとしても、「推しのR-18本は買うべからず」という戒律がある宗教に入っているのでどっちみち買わなかった気がする。
「気がする」と書いたのは、その場で戒律を破る判断も場合によってはし得るからである。

次の日には、秋葉原でやってるVTuberグループ(同上)の展示イベントに行った。この2日間、とても「オタク」していたように思う。
その後知り合いと美術館に行ったが、秋葉原にいたときにバッグに付けていたピンバッジを外し忘れていた。それ何?と聞かれたのでそそくさと外した。

展示イベントの会場では同好の士がたむろしつつ、こち亀のよく転載される画像みたく「○○いいよね」「いい…」という会話を交わしていた。(ちゃんと聞いてないから詳しい内容は知らんけど)

展示スペース内はけっこう混んでおり、正直「展示見終わってだべってるんなら外出てくれねーかな」と思ってた。
そう思いながら「こういう思考をしてるから俺はオタクの友達が少ねーんだろな」と思っていた。

以前あったイベントで同好の士に声をかけてもらって一緒に飯を食ったのがとても楽しい時間だったのを覚えている。
また、混雑とか周りの人への迷惑とかを一切合切脳内から排除してああやって自分の好きなものを同じものが好きな友達と無心で語り合えるのは素直に羨ましいと思える。だって楽しそうだったんだもん。

だが、同時に自分にはこういう大っぴらなオタク同士の交流はできないだろうという諦めもある。
この感情は中島敦風に言えば「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」なんだろうし、Creepy Nutsの「たりないふたり」の歌詞と似た感情なんだと思う。

中学12年生の歳もいつの間にか過ぎて数年経ったほどには長く生きてしまっていた。今更生き方なんて大きくは変えられないだろし、今の生き方では自分の友達にすら推しコンテンツを紹介しないような男である。(そそくさとピンバッジを外したことからも察せられるだろう)

あらためて考えると、数少ない友人や知り合いは別の趣味を持った人が多い。
自分と同じ趣味の人は、そのぶんフィールドが狭い場所での意見の不和を気にしてしまう気がするのだ。「あーこの人こういうこと言っちゃうのね」とか、自分に近しいジャンルほど鮮明なビジョンで思えてしまうのだ。
自分の知らないジャンルは「へー、そういう世界もあるんですねえ」と他人事に思えて、そういう人ほどちょうどいい距離感で接することができるのだ。

それでもやっぱり、同じコンテンツにハマる友人、自分の推しコンテンツの悩みや愚痴や尊さを臆面なく吐き出せるような友人が欲しいのだ。
上で述べたCreepy Nutsの「たりないふたり」の歌詞を引用すると、『ホントはバカ騒ぎしたい ホントはチヤホヤされたい みんなの輪の中心で男女問わずに仲良くやりたい』し、自分は『自意識過剰 被害妄想 自己顕示欲の大暴走』だし、『無いものだらけで無いものねだりな最低のろくでなし』なのだ。

それでもやっぱり、推し活をしてて苦しいことはあるし、同じ苦しみを共にする人と傷を舐め合うとまではいかないまでも、苦しみを分かち合えたらどれだけ緩和されるだろうかと思う。


なぜこんなぐるぐるとして鬱屈とした感情を吐き出しちゃっているか、それは盆にも関わらず出勤したあと、テキーラを飲みまくっているからである。
オモコロチャンネルのタコス食べ食べ委員会、サイコー!

この文章はきっと推敲することなく公開されるであろう。酔いが覚めたあとの自分がこの文章を見てなんと思うかは楽しみである。
酩酊状態でヘラヘラしながら書いたこの文章を書き直したり非公開にしたりすることのないよう、酔っている自分から酔ってない自分へのお願いをしつつ、筆を擱かせていただこうと思う。