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弟と猫と戦争

ロシアとウクライナの件で世界の情勢が一国と変化するこの数日。この件について私にできることはやろうと取り組みつつも、「日々のこと」に今日もあくせくする。

そんな中、思い出していた。

11つ下の弟がこの春から大学生になる。私が11のときの弟なので赤ちゃんの頃から面倒を見てきた。3歳になるころには電車にはまり、電車への興味は小学校にいっても中学校に行っても高校生になっても、変わらなかった。

交通や電車のことが学びたいと選んだ学部。日本の中でもそこまで多くないマイナーな学部がある大学は、実家から遠く離れた地にあった。弟は、そこで新生活をスタートするのである。目指すは、とある交通系の企業に就職すること。

3歳からの夢を追いかけながら、その時できる最大限のことを彼のペースで実行してきた弟。その誇らしげな経験と知識と好奇心には羨望のまなざしを持たずにはいられない。彼は本当にかっこいいのだ。

友人や兄弟など、私含め幼いころからあこがれる夢を実現した者はいない。多くの人はほかに興味が行ったり自分の夢などはもちきれなかったり挫折などして今日を過ごしているのだ。

一方で弟は、それへの興味が廃れることもなく、私がこうしてnoteを書いている間も電車のことを考えている(かもしれない)。3歳から18歳までずっと。それが何より尊敬なのである。

しかしながら、ペルーに青年海外協力隊で行った私に弟は「本当に尊敬だ~」とつぶやいていた。私にとっては大したことなくても弟からみるとリスペクトの対象になるものなのだろう。弟と私はある意味ないものねだりで、ある意味お互いの自分とは違うものにリスペクトを持つ。違うということは、つまりリスペクトなのである。

職場で猫を飼っている。ふらふらとどこかに行ったと思いきやまたやってくる気まぐれの猫を見ながら、感慨にふけっていた。

餌があるとやってくる。餌を求めて狩りに行く。
眠い時には寝るし、温かいところでは丸くなる。
愛情が欲しいときにはこっちにくるし、ほっといてほしいときにはどっかにいく。
そんな気まぐれ星人である。

人間の8倍は短い猫の生涯だが、寝て食って愛されて、それもそれで幸せそうである。猫になりたい人の気持ちもわかる気もする。
それではなぜ人間は変化したのか。猿からヒトに。もしくは「進化」というべきか?
進化は、そこまでにして必要だったのか、それは「自然への順応」なのだろうか?

昨今のテクノロジーの変化を見ていると、人間はどこにむかっているのかよくわからない、何がしたいのか。
それに救われる一面もあるのだろうが、失う自由と命はないといえるのか。
猫くらい気ままに人間が生きたら世界はどうなるのだろうか。消えてなくなるのか?

人間は、賢い。どんどん賢くなっていく。
しかし何か自然破壊したり何かの命を奪うための賢さ、格差を広げる賢さ優しさを保てない賢さは、果たして必要なのだろうか。猫的な生き方は、もはや人間はできないのだろうか。猫的な生き方ができない人間の暮らしで昨日よりも今日が、今日よりも明日が幸せとなる日はやってくるだろうか。

戦争

もはや世界共通である「戦争反対」の原則。わかりきっているからって言うのを控える必要はない、何度でも言おう。戦争は、反対だ。

世の中の情勢が日々変化していくこの令和の日々において、身近なものを愛す時のリスペクトを私たちは常に抱き、気ままな暮らしの猫の姿を私たちはもっと見習いたいのだ。見習うべきなのだろう。

私にできることは、やろう。まずは発信と国際機関への寄付だろうか。武器を手にしない遠い国の私たちにも、きっとできることはあろう。


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