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岡田尊司「回避型人類の登場 ネオサピエンス」

生物の進化は、ものすごく長い時間をかけられて、少しずつ起きていく、というのが、定説だった。でも、2009年に出版されたグレゴリー・コクランとヘンリー・ハーペンディングによる「一万年の進化爆発」よれば、過去1万年に起きた変化は、700万年の間に起きた進化の100倍であるという。
確かにこの1万年の変化はすさまじいものがあった。そしてその変化はどんどん急速に進んでいる。1,000年前といえば、まだ鎌倉幕府もできていなかった。ところが100年前には鉄道が走っているし、10年前には手のひらサイズの端末でインターネットが見られるようになった。

そんな中で、回避型愛着スタイルを持つ人がどんどんと増えており、それはもう個性というよりは、人類と解釈すべきではないかというのが岡田氏の考えだ。回避型愛着スタイルとは、情緒的な交流や親密な関係を避けてしまう性質のことを指す。遺伝要因も3~4割あるが、親との結びつきが低いなど、育った環境要因も大きいという。ごく最近現れた特性というわけではなく、古くはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ニーチェなどもそうだったといっている。
最初の回避型愛着スタイルの増加として岡田氏が挙げている事例は、60年代のアメリカで回避型が多く見られたという研究結果である。その頃はちょうど母親の社会進出が始まった頃だった。その後、1988年から2011年にかけてアメリカの大学生2万5千人以上を対象に行われた調査結果では、安定型が48.98%から41.62%に減少している一方で、回避型が11.93%から18.62%に増加しているという。これは情報革命によって対面コミュニケーションが減少し、偏った神経回路を酷使することで、脳機能の一部が低下し社会性や共感性が減少したことによるものではないかとしている。さらに衝撃的なのは、親に起きた変化は、親の関わり方を通して、生まれた時から影響するのではないかということだ。

私にも思い当たることがある。授乳をする時にはテレビを消して、子どもの顔を見つめてと育児書には書いてあった。でも丸一日一人でいると、テレビやスマホの刺激が必要だった。長男はミルクだったから両手を使うからテレビを見ながら、下二人は、片腕で抱き母乳をあげながら、空いた手で文庫本を開いたり、スマホを見たりしていた。そして、今子どもたちは器用にタブレットを見て、出かけている時もすぐに何かを検索したいといってスマホを見たがり、そのままなかなか離さない。一緒に見てほしいというから、回避型の特性が出ているわけではないとは思うけれど、そうなったとしてもおかしくなかった気はする。

回避型人類の特性は、親密な関係ができないというのではなく、不要、ということだ。だから、現代社会に適応しているから、増えていくのだ、というのが岡田氏の説だ。例えば回避型の親から生まれて、同じように子どもが回避型であれば、同じようなタイプだから傷つくことはない。しかし、もし共感性を持って生まれると、傷ついたり気苦労を抱えたりすることになり、不安型や未解決型になる。一時的にこういうタイプが増加するが、次第に回避型に適応していくのではないかということだ。
しかし、回避型が悪いというわけではない。例えばビジネスの社会においては、トップは回避型の方がふさわしいのではないかと考えている。不安型であったりすれば、判断を誤ることもある。しかし、回避型であれば、共感の欠如が有効に働き、正常な判断をすることができて、結果的に企業を維持し、多くの人間を助けることができるという。マキャベリの君主論に描かれた姿も、回避型であるという。

岡田氏は愛着システムは、人間社会の土台をなす構造であると考えている。だからこそ、回避型が増えている現状を憂いている。女性が社会進出することは悪いことではない、と断りながらも、随所に、ゼロ歳児から保育所に預けられると、といった記述が見られる。働く母親としては、少々傷つく。以前岡田氏の「母という病」、「父という病」も読んだけれど、母性はとても大切で、母親が父性も持ち合わせて子育てすることはできるけれど、父親が母性を持ち合わせることは難しいというようなことが書かれていた。片親でなくても、母親がワンオペで子育てしたら、父性の度合いが強くなってしまうのではないか。だとしたら、女性が社会進出していたとしても、父親がまともな時間に帰ってくれば、父性は父親に任せて、時間的に短い交流であったとしても、母親らしい交流を子どもとできたりするのではないか。
新型コロナウィルス対策の関連で、父親が在宅勤務している家庭も増えていると思うが、親も子供たちも通常の生活を送ることができない中で、どう、家族で関わりあっていくかを試すことができるのかもしれない。

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