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 朝方、まだ空が昏い頃、妻が私を起こした。「破水したかもしれない」と、顔色を変えて彼女は言った。時間は早朝の四時。眠りが深い時間帯に、僕を起こす理由は大抵、深刻な事態である。現実とはとかく人間の想像を超えるものだ。それを僕は十分に知っている。

 すぐに病院に連絡し、僕は座席にシートを敷いて車に妻を乗せた。運転中、妻は「破水かと思ったらただの尿漏れだったという話もよくあるらしい」と言って笑った。僕も彼女の笑顔に引き込まれて一緒に笑った。一方で、病院へ向かう道路は無表情なまま、その先に何が待ち受けているのかを黙っていた。

 病院に着いて、妻は検査室へ行った。一人残された待合室で、時間の流れはやけに遅く感じられた。時計の針が進む度、心はドキドキと高鳴った。

 しばらくして、医師に呼ばれた。「破水しているので、このまま入院です」と告げられた。そして、コロナの影響で立ち会えないとのこと。帰るしかなかった。新たな命が地上に降り立つ瞬間を目の当たりにできないと知った時、その無力感ともどかしさは言葉では表現できないほどだった。  

 帰路につくと、妻からLINEが届いた。「こんなあっさり別れるとは思わなかったよ。また連絡するね!」そのメッセージを読んで、僕は少し笑ってしまった。彼女の冗談に包まれた強さに心を打たれたからだ。

 そして、その日の朝6時。帰宅した僕は、妻の連絡を待つことになった。家は静かで、妻の不在が際立つ。でも、その空白は新たな命の到来を予告している。不思議と、その静寂には暖かささえ感じた。今、待つしかない。命の奇跡を、家族の誕生を。

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