『黄桃の味』のゲバリから教わった、世界を美しいと感じるシンプルな方法


先日アッバス・キアロスタミ監督の『黄桃の味(1998)』『ホームワーク(1995)』をみた。

初めてキアロスタミ監督を知ったのはAmazonビデオでみつけた『友だちのうちはどこ?(1987)』という映画。私は基本的に人物像に焦点を当てて鑑賞・考察ができるヒューマンドラマが好きなので、あらすじを読みつつたまたまプライムになっていたその映画を選んだ。

また別の機会に記載できればと思うが、その作品でキアロスタミ監督の撮る映像の美しさと見せ方の秀逸さ、淡々と映し出されるその土地の人々の暮らしや人間性、少しの皮肉と各所に散りばめられた人生への問いに魅力された。その後『そして人生は続く(1992)』をみて、今回の2作品である。

まず、今回の記事では『桜桃の味』に関して。
この話はイランを舞台にしたお話で、自殺願望のある男性が自分の自殺の手伝いをしてくれる人を探す過程である老人と出会い、心動かされていく物語。

土埃舞う砂利道をすすむ車が一台、人生を終わらせたいと願う中年男性バディが運転をしている。彼はまちを車で走らせながら出会った人に「金になる仕事があるが、やらないか」と声をかけていくが、なかなかやってくれる人は現れない。

運良く車に同乗させることができても「お金を渡すから自殺の手伝いをしてくれ」と具体的な話をすると断られる。
自殺の手伝いとは、「夜に睡眠薬を飲んで穴の中に横たわる。あなたは次の朝に来て、穴の中の私を呼んでほしい。返事がなかったら、土をかけて、埋めてほしい」というもの。

若い兵士はそんなことはしたくない、と逃げ、神学生は神は自殺をゆるしていない、という。

ただひとり、トルコ人の老人バゲリは違った。

彼は、バディの自殺の手伝いをうけた。自分の息子の病気の治療費のために。


しかし、本当はそんなことをしたくないという。バディが自分を埋めてほしいという場所から車で砂利道を下る道中、ポツリポツリとゲバリは過去の話を話し出した。自身が昔死のうと思い暗い森へむかったこと、その時に紐を括ろうと思っていた木に生えていた熟した桑の実を食べたことで『死ぬ』という目的をそこに置いて、持ち帰った桑の実を妻と一緒に食べたこと。

そしてこうつぶやく。(長い長いあたたかいセリフの中、一部を切り取って記載しています)
「あんたの体はなんともない。ただ考えが病気なだけだ。わしも自殺しに行ったが、桑の実に命を救われた。ほんの小さな桑の実に。あんたの目が見てる世界は、本当の世界と違う。見方を変えれば、世界が変わる。幸せな目で見れば、幸せな世界が見えるよ。」

「希望はないのかね?
朝起きたとき、空をみたことはないかね。夜明けの太陽を見たいとは思わないかね?赤と黄に染まった夕焼け空をもう1度見たくないか?月はどうだ?星空を見たくないか?夜空にぽっかり浮かんだ満月を見たくない?

目を閉じてしまうのか?
あの世から見に来たいほど、美しい世界なのに、あんたはあの世に行きたいのか。もう1度、泉の水を飲みたくはないかね?泉の水で顔を洗いたくないかね?」

・・・・
ゲバリの美しい言葉たちに、
気づいたら私は涙を流していた。

その後バディは、ゲバリと別れた後にゲバリの職場へ引き返しこういう。
『明日、声が帰って来なかったら、2回、3回呼んでほしい。それでも返ってこなかったら、かたをゆすってほしい。と。』

思い返せば、彼はそもそも1人で死ねる方法を選ばなかった。埋める工程なんて、他の方法で死ねば必要のないこと。本来であれば、人の助けなどいらないのだ。
だけど、彼は手助けしてくれる人をもとめていた。本当は誰かに助けて欲しかったのではないだろうか。

ゲバリと話した後、彼は運動場を走る学生を見つめ、夕陽を眺める。その時の彼はきっとゲバリの言葉を通して彼は世界の美しさを再認識することができたのだと、そう感じた。

人生は、どれだけ絶望していても、
小さな桑の実に救われるほどシンプルで、
考え方を変えるだけで見えなくなっていた美しい世界をまた感じることができる。

もし死にたいと思う時が来たら、
この映画をまた見ようと思う。

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