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置き忘れた何かを探している


あきやさんがこちらの記事で

今は10代〜20代の時に憧れていた服を買うようにしているので「敬意」みたいなものが大きくて、「毎日その服を着られるのが夢のよう」という気分で過ごしているのです。衝動的な「好き!」は移り変わりがありますが、「敬意」は割と長く続きます🙌


と書かれていて、ふと思ったことをつれづれと。
特にあきやさんの記事とは関係のない話である。





幼少期



幼少期のコンプレックスや羨望を少しずつ回収していくのか人生なのではないだろうか、と漠然とだが思っている。

わたしの通っていた小学校は自由服登校であった。要は制服がない。それを人に言うと大概羨ましいと言われるのだが、実際は小学生にしていらぬ苦労をした、というのがわたし個人の感想である。
低学年の頃スカートを履くと男子がスカートを捲ってくるものだから、ほとんどの女子がパンツスタイルだった。今思えばそのせいで余計にスカートを履く女子が男子からは珍しくてからかいの対象になっていたのかもしれない。そしてパンツスタイルが大半だった女子たちからすると、スカートを履いている女子は目立ちたがっていると煙たがられていた、ように思う。
学年が上がるにつれて、そういうことをする男子がいなくなるとともに女子のそういった空気感も薄れてはいったが、今度は少しでも派手な格好をすると中学生(通学路が被っていたのだ)にこちらに聞こえるくらいの声で嫌味を言われる、ということが増えてくる。そこで自分を曲げない気の強いタイプの女子は少数派で、大半の女子は目立たない服装を好むようになっていた。
(そういった背景をわたしが色濃く覚えているのは、中学生の頃不眠症になり中学生以降記憶が曖昧なせいだと思う。正直中高の記憶はあまりないのである)



10代後半から20歳終盤


そういうことがあったからか定かではないが、大人になった今でも、わたしはファッションに対して苦手意識を抱いている。

大体の人は、高校生もしくは高校卒業くらいからアルバイトであったり就職であったりでお金を稼ぎ、そして欲しいものを手に入れることができるようになる。
わたしもそうであった。あまりひとつのところで長く続くタイプではなかったが。

ファッションに苦手意識を持ちつつも、お洒落になりたいと思い、その反面目立ちすぎてはいけないと思う。その間で舵を急に切るものだから系統があっちへバコン、こっちへズガンと変わることもあり衣替え=大出費だった。
そのためどうしても本当に欲しいものが手に入れられなかった。プチプラの代替品をたくさん買っていた。
こういう経験も必要なのだろう。しかしそこからしばらく社会からログアウトする事態に陥り、わたしは更に拗れることになる。



社会との関わりが薄れていく


ログアウト、と書いたがようは社会と関わることがほぼほぼなくなってしまったのだ。
人生のうちの1/4ほど、社会と関わらずひっそりと家の中で生きてきた。原因は精神的な病気によるものである(18歳から今現在に至るまで病気と付き合っているがその間に5年ほど勤めた会社がある、その期間は1/4から除外している)。
今現在も育児中なこともあり、仕事はしていない。

わたしの世界はひどく狭い。
そのくせネットを開けば色んな世界が覗き見れる。
ボーナスで買いたいハイブラバッグ、とか、20代30代で手に入れたい名品ジュエリー、とか。
正直言ってこの手の特集を少し前まで嫌悪していた。自分には絶対手の届かないものを人が手にしていることに対する嫉妬からくるものである。

少しでも良いブランドのものが、手に入るならとメルカリやリユースショップをよく覗いていたこともあったが、結局本当に欲しいものではないので満たされなかった。
精神的な苦しさも相まって、常に感じていたのは飢えだった。過食に走っては、更に症状が悪くなって何も食べられなくなる。そんなことがつい数年前までよく起きていた。



わたしの置き忘れたなにか


わたしはわたしのこの社会との関係が希薄であることを長い間コンプレックスに思っていた。というか、今だって思っている。周囲の友人は働いている、妹も、親戚も。
そこでふと考える、田舎の集落のなかで、車も持たずに生活している祖母のことを。彼女のほうが社会との関係は密であるとは思う。しかし狭さでいえば、どっこいどっこいではないだろうか。
それでも彼女の思考は柔軟で寛容的だ。わたしが不登校になった際も、無職になった際も、何も言わずわたしの来訪を受け入れてくれた。そういえば祖父も、あの年代のしかも男の人だったにも関わらず学校にも行かない孫に「どっか行くか」と誘うことはあれど、とやかく言ってくることは決してなかった。
何故だろうかと母と話して出た結論は、田舎特有の狭くて濃いコミュニティにあった。誰か仕事を辞めたとか、離婚したとか、それこそ、自殺しただとか、ネットとは違う相手の顔のよくわかった状態で仕入れる情報、それが祖父母の思考を柔軟にしたのではないだろうか。誰になにがいつ起きてもおかしくない。生きてて元気にしてくれればそれで御の字、そう思われたのかもしれない。

祖父母はわりかし裕福な農家だった。今は祖母ひとりになり、切り詰めるところは切り詰めているが。そんな祖母の節約の役に立っているのが、昔百貨店で買った洋服たちである。
祖父は妙なところがケチな人だった。農機具や仏壇(何百万もする)を誰にも相談せずにいきなり買うくせに100円のピーナッツチョコの中身が少ないとよく顔を顰めていた(しかしそんなところか嫌味ではなくチャーミングにうつるタイプの人だった)。
そんな祖父と一緒の買い物は祖母に良い緊張感をもたらしていたらしい。よく考え抜いた長く着れて着心地の良いものを彼女は今も大切に着用している。たまに服が欲しいと言うが、それは畑に着ていく所謂野良着であったり部屋着であって外におでかけに行く際に着るものに困っていることはあまりない。
流石に最近腰も曲がってきて多少困るそぶりを見せてはいるが裁縫道具を傍に置き自分でちくちく縫って修正しては大切に着ている。



いつでも拾いに行ける



自問自答ファッションに出会って、真っ先に考えたのは祖母のことだった。困っているようで、困っていない。いや、実際困っている話はたくさん聞くのだが、大体それは衣服のことではない年齢特有のものである。
そういえば父方の祖母も亡くなるまで衣類の悩みを口にしたのを聞いたことがない。彼女は父にとっては口うるさい教育ママであったらしいが、わたしには何も言わず見守ってくれていた。父にはそれが意外だったらしく、よく祖母の家から帰る道すがら「余計なこと言われなかったか?」と確認された。
彼女が髪が薄くなって、と言って頭に巻いているスカーフがとても綺麗なものだったので「それ綺麗だね」と言うと「おじいちゃんがまだ元気な時に百貨店で買ってもらった」と険しい顔を綻ばせていた。

祖父母たちはわたしより、時代的にも置き忘れたものは多かったと思う。仕事ばかりしていたと父も母も言っていた。
それでもそうしたなかで、置き忘れた何かを大切に拾っていたのだろうか。本当にたまの休みに、百貨店で、肩を並べて。

生きている限り、置き忘れた何かをいつでも拾いに行けるだろうと、祖父母たちは知っている。そして、それにいつか自分で気付くから大丈夫なことも。だから何も言わないでいてくれたのかもしれない。
大病や大怪我を経て、多少なんとかなると楽観さを身につけたところはあると思う。でもそれも含めて、敵わないなあと数十年越しに思うのだった。



さいごに


なんだか変なところを掘り進めて、祖父母の話になり、読んでいる方からするとなんなんだこの記事と思うような内容になってしまった。
ただ普段あまり祖母たちが何を考えて生きてきたかに思いをはせることがなかったので、記念として残しておきたくなってしまったのでこのまま公開するつもりである。

話は変わるが、わたしの家系はおそらく長寿家系である。母方の祖母が今年で89歳、まだまだ元気。父方の祖母が享年92歳。(祖父たちは少し亡くなるのが早かったけれど色々あった割に長生きだったと思う)
つまり、少なくとも75歳くらいまで(生活スタイルを考えてこれでもかなり低めで見積もっている)は元気が確約されていると勝手に思い込んでいる。昔はこの長寿家系が憂鬱だった。生きていくのが苦痛だったので。
でも自問自答ファッションに出会い、自分のなりたいや欲しいに真剣に向き合った時に案外良いものかもしれないと思った。
だってココクラッシュ買うのにあと40年以上猶予がある。
20代30代じゃなくても、いつか手にできたらそれだけで最高。夢のようである。
もちろん娘にこれからかかるお金とか、老後のお金とか、ここ数年重なった引越しによる貯金額の寂しさとか、考えることはたくさんあるけれど40年あれば流石になんとかなる気がしてくる。

自問自答ファッションのおかげで本当に欲しいものが少しずつ明確化されているので、昔のようにあれもこれも欲しいと見境なく欲を刺激されることがなくなってきた。そして残りのかなり少なく見積もったつもりの、40年間が楽しみになってきた。
娘の成長以外にまさか楽しみができるなんて、と珍しく浮き足だってしまっている。

置き忘れたものはいつだって拾いに行ける。自分が置き忘れたあの日のコンプレックスも羨望も。なのでなるべく拾いに行こうと思う。何十年経っても。
そしてこれからは毎日これが身に纏えるなんて夢のようだという気分で過ごすのだ。

そんな姿のわたしを見て育つ娘は、きっとファッションのことも好きになる。そう願っている。



本当にさいごに



ふと、祖父母が仕事ばかりしていたという話を思い出して、たまたま母が来ていたので聞いてみた。ご飯とかどうしてたの、と。
そうしたら返ってきた返事にびっくりした。なんとわたしの曽祖父が用意することがあったらしい。曽祖母が台所に立っているのをみたことがない、祖母が用意できない時は曽祖父がしていたと。
思わず、え、あの時代に?と聞き返した。よくよく考えたらびっくりだよねと笑っていた。
ひえええええ、思わず声にならない悲鳴をあげた。田舎ってなんでもすぐ噂話になって大変だけど、こういうよそはよそ、うちはうちなところある(うちの田舎だけ?)。
ついついよそと比べがちになるわたしは反省し、見習っていこうと思った。
わたしはわたし。

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