W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』

歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』p653)

どこかゼーバルトの作品を言い表しているように思えて、引用してみた。

破壊と瓦礫、歴史的な暴力と死はゼーバルトの作品におなじみのものだ。

初めて『アウステルリッツ』を読んだ時の静かな驚きと、求めていた文章とようやく出会えた感触は、読んだ内容を忘れてもまだかすかに残っている。改行のほとんどない文章は、抑えた調子で、そして陰気な内容でいながら、持続の力強さも感じた。時折挟まれる、脈絡があるのかないのかよくわからない写真や図表。挿絵のような、物語の交通整理をするものではない。それはそれで、何かを語りかけている。そして、小説とも自伝ともエッセイとも歴史書ともつかないジャンルの定かならない文章の在り方。そこにとても惹かれたことを覚えている。

何年かぶりに再読して、もちろん内容などまるで忘れていたのだけれど、気付いたのはこの作品がかつて思っていたよりも意識的にフィクションだということだ。複数の人物をモデルに造形されたアウステルリッツという登場人物もそうだが、全体が失われた過去・記憶の探求という形になっている。フィクションとノンフィクションの自在な往還、ジャンルの定かならない文章はたとえ暗鬱な内容を語ろうとも同時に軽さを帯びている。それに気付いたのは『移民たち』で、生まれも国も異なる人々の記憶に、蝶を追いかける正体不明のロシア人がたびたび登場することからだ。この本で言えば、例えばカフカの小説に出てきそうな不気味な人物。そもそもアウステルリッツという名前がカフカの日記に出てきたと言及されているし、作品自体がカフカの未完の長篇のような、決して目的地にたどり着けない探索の旅である。また、ゼーバルトの代名詞といえそうな作中に挟まれる写真にしても、作中人物のモデルになった人物の写真であったり、虚実の交差する場所を提供しているような、虚構と行き来するための扉であるかのような印象だ。

不可知の暗闇、ぽっかりと空いた大きな穴を迂回する小説という印象もある。避けているし、そもそも近づこうにも近づけない。アウステルリッツがたびたび披露する建築にまつわる考察や薀蓄は、自分自身の歴史・あるいは現在から目をそらすための時間稼ぎ、方便だと感じた。それが、避けているということ。しかしそれだけではなく、自分の歴史と向き合い、探求を始め、今度は自分から近づこうとしても、決して近づけない真っ暗で巨大な穴の存在を思い知らされる。そうして、ひとまずこの作品は終わる。

ゼーバルトの作品を読んでいると、幽霊を見るとはどういうことかと考えさせられる。幽霊とは、当人の人格から切り離された残留想念、あるいは人の記憶や場所に残った痕跡から再生される映像のようなものだと思う。そしてそれは時間にも関係する。古い建物やがれきの山を歩いて、積もった歴史を紐解く、それは一種の時間旅行だし、幽霊に出会うことでもある。ゼーバルトは幻視者だが、その幻視は、幽霊・過去・歴史そのものではなく、それが刻まれた廃墟・瓦礫であるところが面白い。いつどこにいても、彼の眼前には記憶の刻まれた廃墟が姿を現す。

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