古川日出男『おおきな森』

長い、とは思わなかった。むしろ大きいと感じた。
その大きさには何か歪なものがある。たとえばマーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』は、外観よりも内側の方が大きい屋敷を舞台にした、それ自体が迷宮じみた本だった。また、古川日出男の『聖家族』の最初の章である『狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」』は、主人公が三畳の独房に閉じ込められたまま、語りは百年を超える彼の血族史を描き出している。
『おおきな森』に感じるのはそういう種類の大きさだ。本のページ数と内側の大きさが一致していない。そして、流れる時間が一定ではない。
この小説ではあらゆるものごとが、時間も空間も越えて繋がり、また時間も空間も越えて重なり合っているのだ。言ってみれば、四次元的な小説、である。

ある言葉が発されると、そこから別の記憶が引き出される。異なる時代や異なる場所で生まれた人物が、起きた事件が、書かれた小説が繋がってゆく。
東北は二つある。京都は三つある。日本の東北地方、それに対して満州は中国の東北に作られた。京都府、東京都、そして新京=満州。満州はこの小説のキーワードの一つである。
戦前、多くの東北の人々がラテンアメリカに移民として渡った。第一回目の芥川賞受賞作はブラジル移民を題材にした石川達三『蒼氓』である。坂口安吾は芥川賞の選考委員を務めていたことがある。ラテンアメリカは、つまり「新大陸」は大航海時代のヨーロッパに植民地化された国々である。そして同じころ、同じくヨーロッパによって日本は開国を迫られる。鉄砲が伝来する。どちらの国々にもキリスト教が伝播する。日本とラテンアメリカは、その歴史に(そして文学に)同じ根を持っていたのだ。一方で日本は植民地化を行った国でもある。
ラテンアメリカに移住した人々はしかし、戦中の移民排斥により満州へ移ることを余儀なくされる。満州は中国の東北に建国された(それが国と認められるのならば、だが)。日本の東北にも国を建てた文学者がいた。宮沢賢治だ。彼は東北にイーハトーブという理想国家を想像した。満州は石原莞爾が想像した理想国家だ。両者は同じく東北に生まれ、そして法華経の熱烈な信奉者という共通点も持っている。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する列車の乗客は、主人公を除いて死者ばかりである。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』には、虐殺された市民を満載した列車に誤って乗せられた生き残りの男のエピソードが存在する。この『おおきな森』は丸消須ガルシャが列車の中で目を覚ます場面から始まる。満州事変は南満州鉄道に端を発している。
『銀河鉄道の夜』の主人公の名前はジョバンニだ。坂口安吾が書いた『イノチガケ』という中編小説には「ヨワン・シローテの殉教」という副題が付いている。この小説の主人公の本名はジョバンニであり、ヨワンとはそれを聞き取れなかった日本人によって呼ばれた名である。この小説で描かれるキリスト教徒の殉難は長崎から始まる。そして長崎は言うまでもなく原爆が投下された場所である。投下された地域にはキリスト教徒が多く住んでいたという。
いくつもの爆発がある。南満州鉄道の爆破。原爆の投下。七三一部隊の施設の証拠隠滅。そして『消滅する海』パートの語り手が遭遇した1985年の事件。
どこまでも繋がってゆく。木々が根を張り枝を伸ばすように。一冊の本の外側にまで。

繋げることはまた、重ねることでもある。
いくつもの異なる時空に存在するものが一つの場所に座を占める、ということがこの小説のいたるところに見られるのだ。
坂口安吾を主人公とするパートでは神隠しに遭った者たちが別の人格になって(もう一人の人間を内に含んで)戻ってくる。また、安吾自身は自分の書いた『教祖の文学』の中で宮沢賢治の文章を引き写したことについて、自分の中に賢治がいたと述懐している。
『イノチガケ』でも描かれた日本のキリスト教徒たちは「切支丹」としての、もう一つの名前を持っている。この『おおきな森』のもう一つのパートでは、主人公たちが丸消須ガルシャ、防留減須ホルヘー、振男・猿=コルタという奇妙な(そしてあきらかにラテンアメリカの文豪たちから取った)名前を持っているのだが、これらが切支丹ネームとして付けられたことが後に明かされる。何より、この小説の舞台である複数の平行世界は鶏卵のように重なって在ると繰り返し言及されるのだ。図示までされて。
一人の人間が複数の名前を持つように、一つの言葉は複数の意味を持つ。丸消須ガルシャたちが乗る列車は、満州鉄道であり銀河鉄道である(ボルヘスの『バベルの図書館』であるようにも思える)。
重ねる、というか何かが何かを含むことはこれまでも古川日出男の小説で語られてきた。たとえば『あるいは修羅の十億年』のサイコは小説の登場人物として架空の父」を演じた。「孕む」という動詞はこの作家の文章で頻繁に登場する。
だが、繋げるということがこれほどまでに小説の前面に表れている作品は初めてだ。挿話が切り替わる時であっても前の章と要素がそのまま続いているなど、異なる者同士の繋がりが見た目にもはっきり表されている。
それゆえに、小説のクライマックスのある再会の場面は、そこに宮沢賢治が、歴史に葬られてきた死者たちが重なることにより、著者の作品では類を見ないほどに感動的である。海水は、塩水は、涙でもある。

『聖家族』において、時空を越えるのは記憶だった。『おおきな森』の中で時空を越えて繋がりと重なりを生むのは連想である。連想は境界を貫いて言葉と言葉を結びつけることができる。
いくつものエピソードが連鎖していく過程で、坂口安吾とガルシア=マルケス(丸消須ガルシャ)という、一見何の関りもなさそうな二人の作家を主人公として並べることが必然だと感じられてくるのだ。
作中で言及される宮沢賢治の『インドラの網』のように、ボルヘスの『エル・アレフ』のように、あらゆる時代と場所を同時に収める視野。直線的にしか読まれえない小説が、そんな光景を読者に感じさせることができるとしたら、この『おおきな森』のような姿になるのではないか。そんな風に思えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?