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「行動に伴う責任」と「人間の愚かさ」を問いかけた「イニシェリン島の精霊」

 タイトルにある「イニシェリン島」とは、北アイルランドにあるとされる架空の島で、そこに伝わる「精霊」の伝説とは「死を精霊が予告する」というものだそうで、ブレンダン・グリーソン演じるコルムによれば「精霊は人々の死をただ嘲り笑って眺めているだけだ」というものらしい。

 というわけで、本作はその島の俯瞰ショットから始まり、画面を覆い尽くしていた霧が晴れていくことで島の様子が見えてくるようになっている。これは誰の視点なのかといえばもちろん「精霊たち」だろう。そして彼らがそこから見下ろして眺めているのは「人間たちの生き様」であり、その「愚かさ」だ。その後に登場するキャラクターたちのほとんどは、だから様々な意味での「愚か者たち」であり、愚かであるが故に混乱と破壊をもたらすだけで物語は終焉し、再び精霊たちの視点である「俯瞰映像」で映画は幕を閉じる。
 こうした語り方の設定からも分かるように、この物語は「寓話」であり、だから劇中で起きる様々な事象には別の意味があると考えた方がいい。

 コリン・ファレル演じる主人公パードリックはある日突然に親友のコルムから絶交を言い渡される。彼には縁を切られるようなことをした覚えがないため、当然ながら混乱し、コルムに問い詰めるが、なかなか説明してくれようとしない。コルムとしてはそんな時間さえも惜しいというのが本音なんだけど、この時点ではその辺のニュアンスも分からない。
 で、結局のところ、コルムは突然自我に目覚めて、「このまま何も世の中に残さずに死んでいっていいのか。自分が存在した証もなく、何も成し遂げずに死んでいいのか」ということに思い至った、ということなんだそうだが、そんな年齢になるまでそこに気づかず、考えもしてこなかったという時点でコルムの愚かさもなかなかのものだ。でもこの事態に翻弄されるパードリックが輪をかけて「愚か者」なので、「バイオリンの曲を作曲して後世に残したい」として作曲を始めたコルムの方が「ちゃんとした人」に見えてしまうきらいがあるが、コルムの愚かさはそんなに待たずに示される。

 この2人の関係はその後、どんどん悪化していって、コルムは「自分に話しかけてくるたびに自分の指を切ってお前の家に投げつけるぞ」と宣言する。当然、誰もそんな言葉は信じないが、パードリックが酒場でコルムに怒りをぶつけた翌日に、コルムは自分の指を1本切ってパードリックの家のドアに投げつけて立ち去っていく。この辺から観客も理解がしにくくなっていくんだけど、この物語は寓話なので、そこに別の意味を見出す必要がある。

 映画の初めの方で、時代は1923年であることがわかるし、海を隔てた本土ではアイルランドの内戦で戦闘が行われていることもわかる。この内戦は現代の視点から見れば「愚かさの極致」と言っていい行為だ。もちろんどんな戦争も行うべきではないんだけど、内戦の場合は「同じ国の者同士の戦い」だ。他国から見れば「内輪もめ」。だからアイルランド内戦と映画の物語を単純に結びつけるのであれば、「内戦」の暗喩として「コルムとパードリックの絶縁騒動」が描かれていると考えるのが素直な見方だと思うし、だからこそ時代設定と舞台設定が「1923年の北アイルランド」になっていると考えるべきだ。

 北アイルランドを舞台にした映画では、1970年にデビッド・リーンが監督した「ライアンの娘」がある。フローベールの「ボヴァリー夫人」を翻案したこの物語を、当時インドなどの東洋文化に傾倒していたリーンはインドを舞台にしようか北アイルランドにしようか迷ったそうなんだけど、最終的にはアイルランドを選び、結果的にはそれで大正解だったと思う(リーンは後に「インドへの道」で東洋を舞台にする案を成就させている)。
 この「ライアンの娘」にはアイルランドという舞台設定以外にも、いくつか「イニシェリン島の精霊」との共通点がある。主人公ロージーが親しくする愚者のマイケルの存在は、「島一番のバカ」と蔑まれているドミニクに呼応するキャラクターだ。どちらも愚者ならではの純粋さを通して、彼をバカにする周囲の人々こそが「真の愚者」であることを浮き彫りにする存在だ。そして向上心というものとは無縁な地域の人々とは対照的に、ロージーは本を読み、学問を愛する人物だ。ロージーの場合はそうした知識が災いし、劇的な恋愛にあこがれるあまり不倫に走って人々からの顰蹙を買うことになる。

 「イニシェリン島~」でこれに該当するのがパードリックの妹のシボーンだ。彼女はロージーのように不倫で問題を起こしたりするわけではなく、単純に「向上心のない島民たち」のある種の「愚かさ」を際立たせるための存在であり、そういった意味では彼女の対極の存在であるドミニクと組み合わさることで、よりコルムやパードリック、そしてその他の島民たちの愚かさが明確になっていく。シボーンは「読書好き」だという点でも島民たちからは理解されない存在であり、雑貨屋のおかみや警官に代表されるように変人として扱われている。最終的にシボーンはこの「愚か者たちの王国」から脱出することで自分の道を切り開いていくことになる。

 「頭が悪い」という点でドミニクをバカにする島民たちが、その真逆の存在であるシボーンをもバカにするのは、コンプレックスと自己の肯定感を乱すことへの抵抗心からだろう。そういった意味ではシボーンというキャラクターの位置づけは2017年の実写映画「美女と野獣」に登場するヒロイン、ベルとも共通する。ベルの場合も「読書好きの変人」として町の人々からは嘲笑されていたが、同じく読書好きで高い知性を持った野獣と知り合うことで魂の充実を感じるようになる。こちらでは愚かな大衆が野獣狩りを始めることで、彼らこそが「真の野獣」であることを描いていた。
 「ライアンの娘」でも人々は不道徳な行為はあったにせよ、ロージーのあらゆる言動が理解できない上に、不倫相手がよその土地から来た男だったために余計に排他的感情が高まり、最終的にはろくに事実関係を確認せず、まったくの勘違いにもかかわらずロージーに対して集団リンチを行ってしまう。

 こうした点から「イニシェリン島~」の住民たちを振り返ってみると、コルムにしろ、パードリックにしろ、酒場の人々にしろ、誰もが身近に起きているアイルランド内戦に対して無関心で、起きて食事して酒場に行って酒を飲み、友人たちと雑談する、という同じことの繰り返しという日々を送っている。彼らとしては日々、「ちゃんと考えている」つもりのようだが、実際には何も考えておらず、同じことの繰り返しを生きているという意味では、彼らと生活を共にしている牛や馬、ロバと変わらない。雑貨屋のおかみは常に「何かニュースはないかい?」と聞いているが、彼女が求めているのは単なるゴシップであり、海を挟んだ本土では「内戦」という最大級のニュースが毎日続いているのに、そこへの関心はない。「ライアンの娘」の大衆は独立派を支持していたので、「政治への関心」という点では〝イニシェリン島の人々〟よりは、まだマシだったのかもしれない。

 この「無知と無関心」や「向上心の欠落」が支配する島で、映画では「2つの死」が予言され、その通りに「2つの死」が描かれる。この2つの死を予告したマコーミック夫人は言うまでもなく「精霊」のメタファーと考えていいが、彼女の言う「死」を迎えてしまうのが「島一番のバカ」とされるドミニクと「間抜けの象徴」でもあるロバだ。
 イニシェリン島の人々の中でドミニクは、親しい関係だったパードリック、そして島民の中ではおそらく最もまともなはずのシボーンからさえも「バカ」と見なされていた。だがドミニクはこの2人が知らないような「フランス語由来の言葉」を知っているという意外な側面があることも描かれていた。この描写があった時点で観客には「ドミニクはバカ」という劇中での評価を「単純に捉えてはいけない」ことが示唆される。

 実際、他の島民たちが「ロバたちと同様に日々のルーティーンをただ繰り返すだけ」という生き方、簡単に言えば「何も行動を起こさない生き方」をしているのとは異なり、ドミニクは積極的な行動力を見せる。その最たるものが「シボーンへの愛の告白」なのだが、「当たって砕けろ」の精神で行動するドミニクは、ここで本当に「当たって砕けて」しまう。彼自身は「夢が破れた」と悲嘆に暮れていたが、表面上は愚者にしか見えない彼の心情を他者が推し量ることは難しい。だから、人生の賭けに出て破れたドミニクは物語上の必然的結果として死亡するんだけど、その原因が入水自殺なのか、あるいはそれに近い何らかの事故だったのかははっきりしない。いずれにせよ、「行動を起こしたドミニク」はその代償として「死」を迎えてしまう。

 一方、パードリックの家のロバ、ジェニーの死は、いわばとばっちりのようなものだ。ロバ自身には何の落ち度もないのに、コルムが投げつけた指を食べてしまったことで、指をのどに詰まらせて死んでしまう。結果的にコルムとパードリックの争いに巻き込まれた形になるわけだが、これを「間抜け」と片付けてしまっていいのか。警官はそうだった。彼はロバの死を笑い飛ばす。そしてコルムはその無神経さに怒り、警官を殴り倒す。ここでもまた一つの錯覚が生まれる。「コルムは正しい」という錯覚だ。

 残りの人生の意味を考えた末にパードリックとの絶縁を決めたコルムは、その後の「作曲して何かを後世に残したい」という志や、ロバの死を笑い飛ばした警官を殴ったことで、ある程度彼の「行動」はあくまでも印象としてだが「正当化」される。だがそもそものコルムの行動は完全に自分の利益しか考えずに行った独りよがりのものだ。長年に渡ってパードリックとの「無意味な会話」を楽しんできたことに対する責任はコルムにもある。2人が過ごしてきた「無意味な会話の責任」は2人に平等にあるわけで、それをコルムは一方的に「パードリックの責任だ」と決めつけて絶縁してしまう。
 そして彼との関係修復を選択肢に持たないコルムは、だからパードリックが何をしてきても拒絶しかしない。パードリックが話しかけてくるたびに自分の指を切って投げつけていく、という行為はその最たるもので、それによって自身がバイオリンを演奏できなくなるという状況が簡単に予見できるはずなのに、感情に任せてその無茶苦茶な行動を実行してしまう。自己の利益を優先した結果、取り返しのつかない損害を自分自身に与えてしまっているのだ。ここまでくるとコルムやパードリックの対立が「戦争」という人類による「最も愚かな行為」のメタファーになっていることがわかる。

 話し合いによる解決を拒み、自己の資産を武器に変えて相手を攻撃し、それによって自分たちも弱体化していく、という戦争の基本構造は、この映画のすべてに当てはまる。巻き添えとなって死んでしまったロバのジェニーは、だからいつの時代も巻き添えになって命を奪われる一般市民たちのメタファーであり、だからこそロバの死は「間抜け」では済まされないし、たとえコルムが警官を殴ろうとも、そのすべての原因を生み出したのはコルムによる「パードリックとの絶縁」という決断さえなければ、というそもそもの出発点における「過ち」に立ち返っていくことになるのだ。
 パードリックは最後にはコルムの家を焼き払うという行動に出るが、それはコルムによる「宣戦布告」に対する「リアクション」でしかなく、「愛の告白」というドミニクの行動や、「島からの脱出」というシボーンの行動とは並列にはできない「愚かな行動」なのだ。

 さあ、こうなると本作に登場するキャラクターたちの「行動」には様々な代償がついて回ることがわかる。そして、そんな事態になるんだったら「何もしないでいることが一番いい」という考えが出てくるだろう。そしてその具体例として我々は「何もしないイニシェリン島の人々」の生き様を目の前に突き付けられることになる。それは「何も考えずにロバのように生きる」のか、「向上心を持ってよりよい人生を生きる」のかという選択だ。
 もちろん、誰もが後者がいいと思うだろうが、コルムがもたらした行動の結果が示すように、向上心によってもたらされる出来事には責任が伴うしリスクだってある。だから我々はコルム、ドミニク、シボーンという3人のキャラクターの行動と、その結果の違いから多くのものを学び取らなければならない。そして最も理想的と思える「シボーンの行動」もまた、安全地帯である島から離れて、戦闘が行われている地域に身を投じるというリスクを負っていることも忘れてはならないのである。

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