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最悪とは最善である

誰かが「最悪だ」と喚(わめ)く。
どうして最悪と判ったのだろうか?
何か絶対的基準でも持ち合わせているのか?
そんな訳ないよな。
単なる主観、自分の主観的価値観が、「最悪だ」と言わせた。
人は大きな出来事がある度に「人生観が変わった」とかのたまう。
コロコロ変わる人生観や価値観に基づいて「最悪だ」「最善だ」とわめいた処でさしたる意味は無い。
だから、価値観に基づく判定に過ぎない「最悪だ」は、最善だと言い換えても差し支え無い。
と言う事は、最悪とは最善であっても別に構わない。
人は人生経験や読書で身に着けた価値体系に基づいて、物事に主観的判断を下すが、それはAIの下す判断に劣る。
要するに人間の主観的判断は其処において無意味化する。
だから、自身の価値体系に固執しなくてもいいのである。
自身の価値体系から自由であっても何ら不都合は無い。
自身が最悪と思う事は実は最悪でも何でも無い。
つまり逆に最善かもしれないのである。
人間の判断力がAIより劣るという現実を前に、世界はどんな風にも見え得ると予め知っていれば、一見最悪に見える事も実際は最善かもしれないのである。
故に世界は常に最高最善なのである。

こうして人はこの世が最高最善であることを悟ったならば、転生は完了し永生へと突入する。
つまり、無限無数の転生は人生のお試しコースでしかない。
シュミレーションに過ぎない無限無数の転生を生きたの死んだのと馬鹿騒ぎして結局何も悟らないってどうなってんの?
最高とは何かを知らない癖に「最悪だ」と喚く。
最悪とは最善であると知る者にとって
この世は最高最善なのである。
別の言い方をすると、世界やこの世を自分の価値観に照らして最悪だと判定するのでは無くて、最初から最高最善の物と見做して対処していくのである。
解ったようで分からない、分からないながら何となく理解るかな。
自身の身辺に起こる全ての事象は斯くしてすべからく最高最善でしか無いのである。
自分が最高最善しか発しない以上、最高最善以外の物を受け取る事は不可能なのである。
逆に言うと最悪だと言う人は常に最悪を受け取る羽目になる。
鶏は卵より先と決めて掛かると事実そうなってしまうから不思議である。

これが世界と宇宙の構造なのである。

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