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概念の海で遊ぶ意識たち

人間は平面でも球体でも無いから手足と言う突起部分を有する多面体である。
鉱物がその複雑な組み合わせによって生物に進化可能だとしたら、人間もその意識のグレードアップによりいつの日にか、惑星へと進化する可能性も否定し切れない。
進化の最終形態は宇宙人とか地球のような惑星になることでは無くて、太陽が新星爆発した状態、すなわち自らが宇宙意識そのものになることであろう。

存在のグレードを決めるのは結局、その意識が有する情報の質と量で決まる。
欲念しか有しない意識体、感情的反応しかデキない意識形態、崇高な概念の欠落した遺伝子欠陥としての意識存在、こうした様々の意識形態が宇宙空間を多次元的に彷徨っている。

自分の塩基配列にファクトチェックは必要ない。遺伝子組み換えで人類と言う不治の病は治せそうにない。

自分の意識形態の遺伝子欠陥に自身が気づく可能性は果たして有るのだろうか?
自分に欠けていた崇高な概念をどうすれば自身の内部に取り込めるのだろうか?
悪魔や鬼や悪人が自らの遺伝子欠陥に気づくのに必要な年月は、一体何千兆年くらいだろうか?
人生百年時代に千年生きようと言う人はまず居ない。
寿命が十万年以下の生き物を下等生物と定義する人もいる。
六道輪廻の内部では十万歳は超えない設定だからである。
そう考えると現在の人類の寿命がいかに短いかが分かる。
そういう意味で人生は泡(あぶく)である。短命だ長寿だと言っても誤差の範囲内で総じて短命、寿命は一瞬と言ってよい。
それは何故かと言うと、自分の意識が安定的恒久的概念を保持しえないからである。
クォークや素粒子の寿命、陽子や電子の寿命、地球や太陽の寿命、それぞれの存在に割り当てられた寿命に長い短いとかの不平不満や感情を乗せてもさしたる意味はない。
だから結局生きても死んでも同じことなのである。
生死と言う表面の薄皮に一喜一憂するのを止めて、自分の生命の本質、生滅を超えた意識の本質を掴まないといけない。
生きました、死にました、殺されました、惜しい人を亡くしました、其処には永遠性が欠落している。不変不動の真実が掴めていない。
人の命の脆弱性を悟れる人は少ない。
脆弱性の故に脆弱ならざる何かに気づけるのである。
言い換えると人間の意識は一過性で永続性を欠いている。だから寿命もそれに合わせて短命で虚ろなのである。
人間の有する意識内に確固たる確信が欠落している故に人は短命ですぐ死ぬのである。
人生は短く芸術は長い。なぜかと言うと芸術が曲がりなりにも美と言う永遠性を体現しているからである。
つまり逆に言うと、人間が自身の内部に真善美や愛と言った不変的概念を有するならば、その生命体は自らを不死化していくのである。
欲望の追求には際限がない。なぜなら欲望は入手した瞬間消失するからである。つまり欲望の本質とはその「瞬時性」にある。さっき食べたのにもう腹が減る。永続性がないからである。

意識は自分の内部に、混沌か秩序、安心か不安、一過性か永遠性を取り込み、それを手放したり保持し続けたりする。
自分の保持した概念が塩基配列に記憶されていく。だから自分の内部に一過性しか持ち合わせて無い人間は短命なのである。
生存競争を繰り広げてきた修羅たちには「愛の塩基配列が欠如している。」
つまり、修羅の延長たる人間は未だ「愛」を知らない。人間界や動物界に見られる愛は、エゴの延長としての愛で、本当の愛とは言い難い。だから愛は憎しみとセットになっている。異物の混入した不完全な愛はそれ故瓦解し永続性を欠いてしまう。

自分という存在は今どういった概念を自身の内に保持しているだろうか?死んだ方がましだと考える人もいる。生きてるだけで丸儲けと言う人もいる。不安や恐怖に身を任せる人もいる。一方で確信と不動心を有し瞑想を心底愉しむ人もいる。
人生色々十人十色という訳です。

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